天海 (70)

 

 

 

 「9月1日、秀吉、明ノ柵封日本正使楊邦亨・副使沈惟敬ヲ大坂城ニ引見シ、誥命・勅諭・金印・冠服ヲ受ク、明日、秀吉、柵封使ヲ饗シ、相国寺承兌ヲシテ、誥勅ヲ読マシム、秀吉、明ノ違約ヲ怒リ、柵封使ヲ追還シ、徳川家康ノ諫止ヲ郤ケテ、朝鮮出兵ヲ決ス。」(『史料綜覧』)

 

 文禄5年(1596年)9月1日、大坂城で明使は秀吉に拝謁した。明使は誥命・勅諭・金印・冠服を秀吉に渡すと、秀吉は彼らを饗応した。

 翌日、家康、利家らを招いて歓迎の宴が開かれた。秀吉は明皇帝が贈った王冠と赤の官服を身に着け、承兌明皇帝からの国書を読ませたのである。

 行長は、事前に承兌に「日本国王のところを、大明皇帝と読み替えてほしい。」と頼んでいたのであった。

 

 「ここに特に爾を封じて日本国王となす。」

 

 しかし、行長の祈りも空しく、承兌は、国書をそのまま読んだ。これに秀吉は激怒した。かくして行長の嘘は露見したのである。

 こうして明との講和は破綻した。当然、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、切腹を命じられたのであった。

 

 行長切腹の命に三成は「私も同罪であり、行長が切腹するなら、私も切腹するほかない。」と行長を庇ったのである。また、承兌利家、淀殿らの助命願いもあり、行長は一命を救われたのであった。

 

 さらに驚くべきことに、この後も行長は、秀吉に重用されるのである。これは私には全く理解不能である。無実の罪で滅族されるものがある一方で、こんな欺瞞に満ちた家臣が許されるなど、到底考えられない。

 この頃の秀吉は、もはや物事の善悪を判断できなくなっている。独裁者は一見、何でも出来るように誤解されるが、独裁国家にも世論はあるのだ。表に出ないだけである。公平さが失われれば、何れ政権は崩壊する他ない。後は、遅いか早いかの問題だけである。

 

 「徳川家康ノ諫止ヲ郤(シリゾ)ケテ、朝鮮出兵ヲ決ス。」とあるので、家康強く諫めたようである。にもかかわらず、秀吉はまたしても朝鮮出兵を決めたのであった。

 

 天正から文禄への改元は、豊臣政権における初めての改元であった。これは秀次関白就任1年後の天正20年(1593年)4月12日に実施されたのである。

 文禄4年(1595年)7月15日に秀次切腹事件が起きた。この事件の1年後、文禄5年閏7月9日に伊予・豊後大地震、12日には九州で地震、13日では畿内一円で大地震(慶長伏見地震)が起きたのである。

 口に出すことも憚れたが、誰もが秀次の怨念を感じたであろう。天変地異を理由に文禄5年(1596年)10月27日文禄から慶長の改元が実施されたのである。豊臣政権にとって2度目の改元であった。

 

西笑承兌