天海 (69)

 

 

 朝鮮出兵中の文禄5年(1596年)、加藤清正召還事件が起きた。これは三成行長が、講和の障害となる清正を排斥した事件である。

 

 ① 清正が小西行長を堺の町人であると罵ったこと、

 ② 清正が無断で豊臣姓を名乗ったこと、

 ③ 清正の部下が明の正使の財貨を盗み逃亡したこと、等を秀吉に訴えたという。こうして清正は、秀吉から帰国を命じられ、伏見屋敷で蟄居することになったのである。

 

 閏7月13日、慶長伏見大地震が起きる。死者数は京都や堺で1,000人以上と伝えられており、秀吉が大改修して完成間近の伏見城天守も、この地震により倒壊した。城内だけで600人が圧死したのである。清正は直ちに秀吉救援のため伏見城に駆け付けたという。

 こうして利家、家康の仲介もあり、秀吉は清正を赦したのであった。しかしこの一連の出来事は、すべて三成の差し金であると考え、清正は、三成を深く恨んだのである。

 

 さて、清正の排除に成功した行長はその後、明とどのような講和交渉をしたのか、見てみよう。

 

 「4月2日、明ノ冊封日本正使・李宗城、慶尚道釜山ノ小西行長ノ陣営ヨリ出奔ス。」(『史料綜覧』)

 明皇帝から「秀吉を『日本国王』に任命する。」という誥命を伝える明国の冊封使・李宗城が、秀吉の「講和7ヶ条」を知って、日本軍の軍営から逃げ帰ったという事件である。

 正使・李宗城が逃亡してしまい、さすがの行長、三成も困り果てた。そこで副使の楊方亨を正使とし、沈惟敬を副使として、またもや欺瞞に満ちた明使節を作り上げるのである。

 

 「5月4日、明王朱翊釣、柵封日本正使李宗城ノ出奔セルニ依リ、都督僉事楊邦亨ヲ柵封日本正使、沈惟敬ヲ同副使ト爲ス。」

 「6月15日、明ノ柵封日本正使楊邦亨、慶尚道釜山ヲ発ス、尋デ、和泉堺ニ著ス。」

 「6月27日、明ノ柵封日本副使沈惟敬、山城伏見城ニ、秀吉ニ謁ス、尋デ、大坂ニ歸ル。」

 「7月5日、秀吉、明ノ柵封日本正使楊邦亨ニ武者揃ヲ見セシメントシ、諸大名ニ其準備ヲ命ズ。」

 「閏7月4日、朝鮮通信使黄慎・副使朴弘長等、慶尚道ヲ発シ、日本ニ向フ。」

 「8月29日、明ノ柵封日本正使楊邦亨、朝鮮通信使黄慎等、大坂ニ著ス。秀吉、對馬府中ノ宗義智ノ老臣柳川調信ヲシテ、黄慎等ヲ責メシメ、明使ト供ニ見ルヲ許サザル。」(同上)

 

 さて、このようにして行長は運命の明使謁見の日を迎えるのである。行長は、なおも秀吉を騙すために、翻訳して書を読み上げる西笑承兌に、内容をごまかすよう依頼した。書の本当の中身を秀吉に知られては、全ては破綻である。

 その承兌は、実に学識に優れた僧侶である。長年、秀吉の側近として仕え、主に外交分野で活躍していたのであった。

 

大日本名将鑑 豊臣秀吉公

(慶長伏見地震の際に秀吉のもとに駆け付け救い出した加藤清正)