天海 (68)
五大老と五奉行は豊臣政権の最高権力機関であったが、その上下関係も判然としない、曖昧なものであった。
この後に成立する江戸幕府は緻密な行政組織を持っていて、前田・伊達・島津等の大大名は一切幕政に関わらせなかった。豊臣政権は大大名を政権内部に取り込むことで政権を安定させたかったのであろうが、結果として政権内部の権力抗争を強めることになったのである。
伍助が江戸に入ったのは文禄4年(1595年)11月も半ばであった。この頃、家康は伏見城に詰めていて、江戸には不在であった。主に秀忠と正信が江戸城改築等にあたっていたのである。
伍助が江戸の遠山屋敷に立ち寄ると、折よく天海がいた。
「これは、お久しぶりでございます。」と伍助が言うと、
「おぉ、行き違いにならなくて、良かった。」と天海も大層喜んだのである。
「そうか、与平次は幽斎殿の世話になるのか。」と天海は庄兵衛からの書状を手に頷いた。
(それにしても三宅藤兵衛とは、恐れ入ったわい。)
「ところで、与平次は坂本城からどのように落ち延びたことにしたのだ。」と天海が尋ねると、
「はい、最初から勝竜寺城にいて、家臣に抱かれて京都に逃れたことにしたそうです。」と伍助は説明するが、
「うむ、母親が坂本城にいるのに、二歳か三歳の子を一人でそんな危険な城に連れて行くわけがなかろうに、本当にそれで良いのか。」と天海は小首を傾げた。
「確かにそうですが、まぁ、今となっては、事実はもう誰も分かりませんでしょう。」と伍助は笑った。
秀次切腹事件は江戸でも大騒ぎであったらしく、天海は事件のことを良く知っていたのである。
「ここのところ、オレは、徳川家との口利き役になってしまって、天台宗に限らず、色んな奴が頼みごとをしてくる。すっかり顔役になってしまったのだ。」というと、カラカラと笑い、
「そこでこちらも色々と噂話を仕入れてな、佐渡守様に恩を売っているのよ。」と言うのだ。
「相変わらずの生臭坊主ですね。」と伍助が言うと、二人は大笑いをした。
「いや、それはそれ、修行は修行だ。決して生臭ではないぞ。」と天海は言う。
「幽斎様から弥平次様が武蔵大納言様の世話になっているのか、とお尋ねがあったそうです。」と伍助が言うと、
「大納言様は、あちらこちらで、面白い坊主がいると話しているようだ。流石に正体は言わぬであろうが、困ったものだ。」と天海は迷惑そうに言った。
「何せよ、伍助の見通しは正しい。明との講和も危ういという話が方々で出ている。恐らく後継者問題もこのままでは終わらんぞ。これでは豊臣政権は大変なことになる。」と天海は言った。
夕刻には利景らも帰宅し、邸内は賑やかになった。
「なぁ、オレが言った通りであろう。方景、朝鮮の役で浮かれている場合ではないのだ。あの金は皆、百姓の年貢米で支払うことになるのだ。これから世は麻縄の如く乱れるぞ。」と利景は嫡男・方景に言った。困惑した方景は天海に首を竦めて見せたのである。
江戸に数日滞在すると伍助は帰路についた。
「倫子には、済まないと伝えてくれ。ここ数年が一番大事な時期なのだ。必ず会いに戻るから、それまでは健康に気を付けて、くれぐれも自愛するようにと、伝えてくれ。」と天海は言ったのである。
江戸城