天海 (67)

 

 

 では、五大老と呼ばれた6人を紹介しよう。

 

 まずは、徳川家康である。所領は武蔵・伊豆・相模・下総・上総・上野・下野など256万石であり、居城は江戸城である。天文11年(1542年)生まれの53歳であった。

 次は前田利家である。所領は加賀・越中など83万石であり、居城は金沢城である。天文7年(1538年)生まれで57歳であった。

 毛利輝元の所領は、安芸・周防・出雲・石見・備後・隠岐など120万石であり、居城は広島城である。天文22年(1553年)生まれの42歳である。

 宇喜多秀家の所領は、備前・美作・備中半国など57万石である。居城は岡山城で元亀3年(1572年)に生まれている。年齢はまだ23歳であった。

 小早川隆景の所領は筑前・肥前と築後の一部で38万石であった。居城は名島城である。ただ、旧領の備後三原にも所領があったようで、概ね50万石くらいではないかと思う。天文2年(1533年)生まれの62歳である。

 

 上杉景勝は、隆景が死んだ後に五大老になったと、私はかつて教わったが、実際には六大老であったようだ。隆景が亡くなり、五大老になったと考えるべきであろう。

 この頃の景勝の所領は、越後、佐渡、信濃と越中の一部に出羽国庄内地方で91万石、他に在京料の名目で10万石あった。つまりこの時点で100万石を越えていたのだ。さらに佐渡の金山を所有していたことで財政は豊かであったろう。弘治元年(1556年)生まれの39歳である。

 この後、景勝は蒲生家に代わり会津に入った。所領は陸奥国会津と出羽国庄内および佐渡など120万石、居城は会津鶴ヶ城であった。

 

 俗に五奉行と呼ばれたのは、主に司法担当した浅野長政(甲斐甲府22万石)、宗教担当の前田玄以(丹波亀山5万石)、行政担当の石田三成(近江佐和山19万石)、土木担当の増田長盛(大和郡山22万石)、財政担当の長束正家(近江水口5万石)の5人である。ただ実態としては、大谷吉継小西行長、宮部継潤、富田一白なども奉行職を務めていて、必ずしもこの5人という訳ではなかったのである。

 

 さて、奉行衆の筆頭浅井長政は、秀吉の一門衆である。

 長政は小田原征伐掃討戦奥州仕置で活躍し、東国取次役として、葛西大崎一揆九戸政実の乱の対処をした。朝鮮出兵でも功績があり、甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入っている。

 

 『常山紀談』によると、秀吉が自ら朝鮮に渡ると言い出したとき、「殿下は昔と随分変わられました。きっと古狐(淀殿か。)が殿下にとりついたのでしょう。」と言い放ったという。

 秀吉は激怒して刀を抜いたが、「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。朝鮮出兵により、朝鮮八道・日本六十余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください。」と諫言したという。

 その長政も秀次切腹事件では秀吉から勘気を蒙り、一時政権から遠ざけられたのである。

 

 

 

上杉景勝