天海 (66)

 

 

 京都の滞在を終えて、庄兵衛伍助は重い足取りで美濃へ向かっていた。秋もすっかり深まり、近江を過ぎて関ケ原に入る頃には、辺りは寒々しい荒れ地が広がるばかりであった。

 

 「雪でも降りますかね。」と伍助が言うと、

 「さすがに雪はまだであろう。」と庄兵衛はいうが、寒さが骨身に染みる。

 「そろそろ隠居かな。長旅が堪える。」と庄兵衛がぼやくと、

 「何をおっしゃいますか。まだ還暦前ではございませんか。」と伍助が言う。

 庄兵衛は天文7年(1538年)の生まれであるから、58歳になる。因みに、天海は天文5年(1536年)の生まれであるから、今年で還暦である。

 「庄兵衛様、太閤様の天下は、もう長くはありません。恐らく10年は持ちますまい。この度の事件は豊臣家を支えるべき血縁者を悉く誅し、残っているのは幼少の跡継ぎのみです。傲慢を極めた太閤様が、どのような末路を辿るか、しかとこの目で確かめましょう。」と伍助は言うのだった。

 

 伍助が村に戻ると、妻子や兄弟が賑やかに出迎えた。子供らは上方のお土産が目当てである。この騒々しさが、家に帰った喜びでもある。

 伍助は庄兵衛から田畑を譲り受け、小さいながらも本百姓になった。そこに両親・兄弟・妻子を呼び寄せたのだ。もっとも伍助自体は農業をしていない。

 「しばらくは、ゆっくりできるのでしょう。」と女房はいうが、

 「いや、何日かしたら、また関東に行く。」と答えると、

 「あらまぁ、人使いの荒いこと。」と女房はいう。

 どうやら伍助はこの仕事が好きなようなのだ。

 「おかげで給金がもらえるのだ。有難いと思わねばな。」と伍助は笑った。

 

 秀次事件とその後の影響や与平次の身の振り方の話もしなくてはならない。お福の婚姻幽斎の話も必要だろう。そして、現在の天海の話も聞いてこなくてはならない。

 とはいえ、我が家で一度寛ぐと、今度はなかなか腰が上がらないのだ。伍助も知らず知らずに疲れがたまっていたのであろう。結局、伍助が江戸に向かったのは、11月に入ってからであった。

 

 さて、秀次事件の後始末なのか、文禄4年(1595年)8月、秀吉は「御掟」5ヶ条と「御掟追加」9ヶ条を発令した。

 

「御掟」

 一 諸大名縁辺之儀、 得二御意一、 以二其上一可二申定一事。

 一 大名小名深重令二契約一、 誓紙等堅御停止之事。

 一 自然於二喧嘩口論一者、 致二堪忍一之輩可レ属二理運一之事。

 一 無二実之儀一申上輩有レ之者、 双方召寄、 堅可被レ遂二御糺明一事。

 一 乗物御赦免之衆、 家康、利家、景勝、輝元、隆景、並 古公家、長老、出世衆。 此外雖レ為二大名一、 若年衆者可レ為二騎馬一。 年齢五十以後之衆者、 路次及二一里者一、 駕籠儀可レ被レ成二御免一候。 於二当病一者、 是又駕籠御免之事。

右條々、於二違犯之輩一者、速可レ被レ處二巌科一者也

 

 ① 諸大名同士の婚姻は、許可を得よ。② 大名小名が誓紙をしてはならない。③ 喧嘩口論においては我慢した者に道理があること。④ 不誠実な申し立てには、双方を呼んで事実を究明すべきこと。⑤ 輿の使用は、家康、利家、景勝、輝元、隆景、並に古公家、長老、出世衆である。この他の若年衆は大名といえども騎馬とする。年齢五十以上の者は、一里以上の遠路の移動の場合、駕籠を許す。病人の者は、駕籠を許す。

 これに小早川隆景・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・徳川家康が連署しているのだ。恐らくこれが、後の五大老の萌芽であろう。

 

関ケ原