天海 (63)

 

 

 

 この一連の出来事に、秀次を筆頭にした一族衆が快く思わなかったのは当然である。豊臣家の血の継がりがない、淀殿が勝手に産んだ男子を後継者として認める訳にはいかなかった。そのうち、秀吉は天下の4/5を秀次に、1/5を拾丸に与えるなどと言い出した。秀吉にしても秀次たちの反発は理解できるものであったのだ。

 秀次も、もし拾丸が秀吉の実子であれば、これまでの恩義に報いるためにも、隠棲するのも吝かではない。しかし、豊臣家の血を継がぬ者であれば、それは何とも心外であったろう。そのようなものに継がせるくらいなら我が子の方が、はるかに血縁が近いではないか、と考えた。どうしても納得がいかなかったのであろう。

 

 しかしこれに淀殿が反論する。秀吉の後ろ盾がなくなれば、自分と拾丸は必ず殺されるであろう。一方で三成は、これを権力奪還の好機と捉えた。この機会に聚楽第秀次政権を根絶やしにしようと考えたのである。

 

 こうして、秀吉究極の選択を迫られた。秀次一族を粛正するか、淀殿と拾丸を不貞を働いた罰として処刑するかである。

 

 秀次排除淀殿三成との利害が一致した。この諍いは三成を味方につけた淀殿が勝利したのである。三成はまず、秀次の家臣団を粛正した。主な家老を殺害・配流することで、政権として二度と立ち上がれないようにしたのである。

 当初はこれだけで終わるはずであった。ところがここで思いがけない事態が起きたのである。命までは奪わぬつもりでいた秀次が無実を訴え、小姓たちとともに自害したのである。

 

 現役の関白が無実を訴えて自害したことで、秀吉政権は打撃を受けた。まだ、弁明も聞かず、取調べも行っていなかったのである。ここを乗り切るために、秀次の罪状を「謀叛の疑い」から「謀叛」に切り替えた。つまり、「秀次謀叛」は疑いのない事実となったのである。よって秀次は自害ではなく切腹を賜ったことになり、謀叛に連座して、秀次一族は皆殺しとなったのである。

 

 秀吉は、自分の後継者は拾丸であり、これに対するいかなる異議も認めなかった。

 一門衆である浅野幸長秀次を庇ったとして流罪となり、父の長政も勘気を蒙り政権から遠ざけられたのである。諸大名の内、秀次に親しかった者にも、災厄が及び、この事件について誰も何も言えないようにした。

 秀吉は、拾丸に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている。

 『大阪城天守閣所蔵文書』の7月20日付織田常真等連署起請文を見ると、28名の大名が血判書で拾丸に対して忠誠を誓っているのだ。つまり、これは秀吉の後継を巡る政争であり、敗れた秀次が、謀叛の濡れ衣を着せられ、追い詰められて自害したという事件である。

 

 「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ不和也、此間種々雑説有之、今日殿下伏見御出也」「昨日殿下禅定於高野山御腹被云々、言語道断也、御謀反必定由風聞也」(『言経卿記』)

 「今朝関白殿へ太閤より御使いありて。謀反とやらんの沙汰御入候て、太閤機嫌悪く御断り候まてとて、関白殿高野へ尾登りのよし申」「関白殿昨日十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申。無実ゆえかくの事候由申すなり」(『御湯殿上日記』)

 かくの如く、謀反説は当時から世間では懐疑的に見られていたのだ。本来、謀叛であれば斬首であり、切腹させたりはしない。恐らく後から作られた謀叛のストーリーに辻褄を合わせるため、哀れにも一族は皆殺しになったのであろう。

 

石田三成