天海 (62)

 

 

 さて、歴史学者の服部英雄九大名誉教授は、その著書『河原ノ者・非人・秀吉』で長男の鶴松はもちろんのこと、次男・秀頼の父親も秀吉ではないと断言している。私もまったく同感である。

 

 「最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。正確な数はともかくとして、秀吉が常人に比すれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができたことは間違いない。けれど、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。秘密があるとみるべきだろう。」(服部氏)

 

 では、秀頼とは誰の子なのであろう。

 

 「秀吉自身がかかわり、秀吉が命令して、生物学的には秀吉の子ではない子を、茶々に産ませた。それならば不義でも密通でもない。断罪もされない。子ができない夫婦に、どのようにして子ができるのか。民俗事例でいえば参籠がある。参籠の場がしばしば男女交情の場になったと指摘している。どうしても子に恵まれない夫婦にも、いよいよのときは子が授かる仕組み・可能性が民間につくられていた。通夜参籠と同じ装置が設定された。聚楽城または大坂城の城内持仏堂が参籠堂となったか。宗教者が関与したと想定する。宗教的陶酔をつくり出すプロは僧侶ないし陰陽師だった。」(服部氏)

 

 どうしても秀吉の子が産みたい淀殿秀吉苦肉の策であったのだろう。秀吉と複数の男性が関わることで「自分の子(かもしれない)鶴松を授かったのである。私はこの説に深く感銘を受けた。鶴松を神から授かった実子であると秀吉は信じたのだ。

 すべてのものを手に入れた秀吉にとって、どうしても叶わなかった夢、それが我が子を抱くことであった。秀吉が狂喜乱舞した気持ちも分かるであろう。

 

 しかし、その最愛の鶴松が死んだ。秀吉淀殿の悲しみは想像に難くない。同時に、秀吉に掛けられた魔法が切れた。現実に戻った秀吉は秀次を後継として関白の職を譲ったのだ。絶望した淀殿はもう一度、参籠を試みようとしたが、秀吉がこれを拒否した。所詮、全てはまやかしである。

 

 朝鮮の役名護屋城にいた秀吉のもとに淀殿がやってくる。もう一度我が子を抱きたい、どうしても鶴松を生き返らせたい、と必死にすがる淀殿に大坂に帰れと突き放した。

 大坂に戻った淀殿は、秀吉の断りもなく参籠を実施したのだ。これが、淀殿の懐妊を秀吉が素直に喜べなかった理由である。秀吉が「あれは淀の子だ。」と言ったのは、言外に「オレの子ではない。」と言っているのである。

 「お拾誕生に、苦々しい思いで大坂城に戻った秀吉の前に、「鶴松だ、鶴松が生き返ったのだ。」と半狂乱で訴える淀殿がいた。その哀れな姿に、秀吉は悲しみを共有したものとして、どうしても罰を与える気になれなかったのであろう。因みに、このくだりは私の妄想である。

 

 「秀吉留守中に起きた不祥事に関して、唱門師(陰陽師)が追放された。これがこの先、数年に及ぶ唱門師大弾圧の始まりである。唱門師はシャーマンとして心理を操り、トランス状態を招くことができ、霊的処術が可能だった。いかがわしい魔術もあったかもしれない。(粛清された)女たちは大坂城内の全員ではない。「若公ノ御袋家中女房衆」すなわち淀殿周辺にいる女房らだと明記している。唱門師追放の翌日からは淀殿付き女房の処刑が開始された。」

(服部氏)

 

 悲しいことに秀吉もまた「お拾」に鶴松の幻影を見たのである。そして、秘密を知るものを粛正した。まず、淀殿の相手をしたと思われる陰陽師たち、手引きをした淀殿つきの女房衆が処刑されたのであった。

 

参籠堂