天海 (61)

 

 

 秀吉は、秀次妻妾子をも処刑した。

 8月2日早朝、三条河原に20間四方の堀を穿ち、周囲に鹿垣を組んだ。さらに一間半の塚を築いて秀次の首が据えられたという。

 その首が見下ろす前で、まず子供たちが処刑された。愛妾といわれた前大納言・菊亭晴季の娘の一の台は、北政所が助命嘆願したが、真っ先に処刑された。

 

 最上義光の愛娘・駒姫は15歳で「東国一の美女」といわれ、出羽国から上京したばかりであった。駒姫は秀次に会ったこともなかったのである。ところが、まだ側室でもない駒姫までも刑場に連れて行かれたのである。

 義光は家康の取り成しを受け、淀殿に書状を出し、助命を嘆願した。淀殿は「駒姫に関しては、まだ秀次と婚礼の儀を済ませていない身だから許すように。」と秀吉に伝えたという。秀吉もこれを無視できなくなり、「鎌倉で尼にするように」と赦免を伝える早馬を派遣したが、刑場に着いたときには、既に処刑されていたという。

 駒姫の最期を知った義光は嘆き悲しみ、数日は食事も喉を通らないほど激しく落胆した。母の大崎夫人も、処刑の14日後の8月16日に亡くなった。娘の跡を追った可能性は高いとされている。

 

 こうして秀次の幼い男子4名女児、側室・侍女・乳母ら39名の全員が斬首された。子供の遺体の上に母らの遺体が無造作に投げ込まれたので、観衆の中からは余りの残酷さに奉行に対して罵詈雑言が浴びせられた。秀次の一族の処刑は数時間に及び、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。

 この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られたという。

 

 また大名預かりとなっていた家老・前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田は全員死を賜り切腹した。こうして秀吉は、縁故の人物を殺しつくしたのである。

 秀吉はさらに聚楽第近江八幡山城の破却を命じた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の邸宅も取り壊された。近江八幡山城は、京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。

 事件はさらに多くの連座者を出した。相婿の浅野幸長は、秀次を弁護したこともあって能登国に配流となり、父である浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。

 細川忠興は、切腹した家老の前野景定の舅で、秀次に黄金200枚の借金をしていたという。忠興は娘をすぐに離縁させ、家康に頼んで弁明した。借金は秀吉に返すことで何とか難を逃れたのである。

 最上義光は娘を秀次の側室に出したことを咎められた。謀反の加担を疑われ、謹慎処分を受けたのである。しかし駒姫は事件が起こった時に上京したばかりだったので、この処分は間もなく解けたのだが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。結果として、義光は恩義のある家康への傾斜をますます強めていくのである。

 

 秀吉は、書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。その上で、今後は「拾丸」(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている。(「大阪城天守閣所蔵文書」)

 

 さて、以上は通説である。秀次切腹事件は謎が多く、事実は良く分からないのである。いずれにせよ、この事件は元々少なかった豊臣家の血縁者を悉く殺すという、豊臣家の馬鹿げた自傷行為であった。

 

駒姫