天海 (57)

 

 

 

 「東照宮江戸に御座しませしに、秀吉の使来りて朝鮮を伐たるる由を申す。斯て一人書院に御座しまして深く思案の體に見えさせ給ひける時、本田正信、御前近く出でたれども御詞も無し。稍有りて正信、殿は朝鮮に渡海有る可きや、と申せども、猶黙然とさせ給うを、斯いふ事三度に及びて後、何事ぞ、喧しきに人に聞くべき。箱根をば誰に守らす可き、と仰有りしかば、正信、さては疾く御思慮定りける、と言ひて退出しけり。」(常山紀談)

 

 家康奥州再仕置を担当したためか、朝鮮に渡河することはなく、名護屋城に在陣したのみであった。当初、秀吉は家康の軍が少ないことに不機嫌であったというが、箱根以東がまだ不安定だったこともあり、秀吉もこれを認めざるを得なかったのである。その代わり、家康は唐入りに特に反対することはなく、表向きは協力的であった。

 こうして東国諸将は渡海を免除され、名護屋城では伊達政宗(後に渡海)、南部信直、上杉景勝(後に渡海)、佐竹義宣らが家康の指揮下にあったという。

 

 文禄2年(1593年)8月3日、淀殿大坂城二ノ丸において男子を産んだ。棄てられた子は丈夫に育つという俗信に従い、一度捨てた子を家臣の松浦重政が拾い上げ、「お拾」と名付けられた。秀吉、57歳の子である。

 「鶴松」が誕生した時、狂喜した秀吉であったが、「お拾」誕生には冷ややかであったという。これには文禄の役で忙殺されていた秀吉が、淀殿の懐妊に疑惑を持ったのではないか、とも言われている。

 文禄2年8月25日、秀吉は大坂城に戻り「お拾」を抱き上げると、次第に喜びを隠せなくなったという。その間に淀殿と、どのようなやり取りがあったかは分からないが、亡くした「鶴松」を思い出したのかも知れない。

 

 文禄3年(1594年)2月27日(新暦では4月17日)、秀吉は桜の名所である吉野で大掛かりな花見の宴を行った。この花見は、後に「豊公の吉野の花見」と呼ばれる。

 吉水院を本陣としたこの盛大な花見の宴には家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら武将をはじめ、茶人、連歌師たちなど総勢5千人が参加した。秀吉はここに5日間滞在し、歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊した。この吉野花見は、秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執りおこなう高野山への参詣途上で催されたという。

 

 

 この頃、秀吉は能に熱中していて、自らも演者に手ほどきを受けるほどであった。また、自身の偉業を後世に伝えるために新作能を作らせている。能の『吉野詣』は、吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を讃える、といった内容であった。

 吉野山に上り、念願であった花見を果たすと、2月29日に開催の歌会では、以下の歌を詠んでいる。

 

「年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」(秀吉)

 

 さて間近にいて、家康はこの秀吉の壮大な自画自賛をどう見ていたであろうか。本来なら、豊臣政権の基盤をしっかりと固めなければならない時期である。質実剛健家康には朝鮮出兵といい、盛大な花見といい、晩年の秀吉の行動は、常軌を逸した異常な振舞にしか見えなかったのではないか。

 

淀殿 (茶々)