天海 (56)

 

 

 

 「秀吉は三成・行長等の上申を信用して、日明の講和を楽観し、毎日諸将を名護屋の本営に集めて、或は能楽を催し、或は仮装狂言を演じつつ、明帝の回答を待ちたりしが、既に六旬を経るも、明廷より何等の回答もなければ、秀吉も稍々惟敬を疑い、講和の成立を危ぶみ、心中に焦立ちたる折柄、適々如水を凛議を要する事ありて、帰朝せしに、何んぞ料らん意外の不首尾にて秀吉大いに怒り…」(金子堅太郎 著『黒田如水伝』,博文館,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950970 (参照 2024-01-15))

 

 行長の嘘により、明の降伏を信じている秀吉は、すっかり浮かれた日々を過ごしていたようである。恐らく名護屋に在陣していた家康もご相伴に預かったことであろう。しかし前線の諸将の苦しさは筆舌に尽くし難いものであった。如水三成行長に憤慨することがあり、秀吉に直訴に及んだのである。ところが、今の秀吉はかつて苦楽を共にした機知にとんだ主君ではなかった。これを軍令違反とし、如水を追い返したのである。

 

 「石田、増田、大谷の三奉行は、ここぞ東萊侮辱の復仇をなすべき好期なりと、頻りに、如水を讒誣したれば、秀吉益々憤怒し、如水の登城を差止め、将さに割腹を命ぜんとす、」(同上)

 

 朝鮮に戻った如水は晋州城の攻防に参加し、亀甲車の設計城郭の縄張り等をしていたようである。しかし、内心は暗然たるものであったろう。播磨で共に戦い、天下に向かって歩み続けた秀吉はもういないのである。今、名護屋にいるのは奸臣に囲まれた色呆けの爺であった。

 8月9日、如水は剃髪し、「如水軒円清」と号した。死罪を覚悟した如水は、長政の将来を懸念し、遺書を認めたのであった。

 

 一方、秀吉は中国征伐以来の如水の功績を思うと、さすがに割腹を命ずることに躊躇したのである。

 長政は秀吉からの書状にて父親の赦免を知り、涙を流した。そして、秀吉に讒言をくり返した三成ら三奉行を深く憎むことになったのである。

 

 秀長、利休と異なり、如水は一命を取り留めたようである。しかし、秀吉との紐帯は既に失われたのであった。こうして天下の偉業を支えた三人の功臣を失い、秀吉は権力欲に塗れた三奉行によって取り込まれたのである。

 

 さて余話であるが、千利休については生存説がある。中村修也・文教大学教授の著書「千利休 切腹と晩年の真実」によると、同時代の一次史料には、利休が切腹したという記述はない、としている。

 「千宗易に不法行為が露見し、宗易は逐電した。それで、今日一条橋に宗易の木像をはりつけにしたという。おかしなことだ。」(時慶記)

 「利休が行方知れずになり木像が磔になった。」(鈴木新平書状)

 「宗易が今日の明け方に切腹したという。宗易から弁解やお詫びがあり、像を磔にし、本人は髙野山に上った。」(多聞院日記)等である。

 

 文禄元年(1592年)、名護屋城の秀吉大政所に「今日も利休の点てた茶を飲んで体調も気分も良い」という書状を出している。また、伏見城の築城は「利休に考案させ、心を込めて依頼したい。」と書いているという。

 

 私には真偽のほどは分からないのだが、生きていても何ら不思議はないと思う。「死罪にする。」と、「赦免する。」の間に、「死んだことにする。」という刑罰があっても良いであろう。

 秀吉を踏みつけた「木像」が磔になったのならそれも一つの解決策である。仮に利休が細川家の庇護を受けて九州で生き延びたとしても、歴史的には、もはや何の意味もない。

 

黒田長政