天海 (52)

 

 

 「天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」

 (朝鮮王朝実録)

 

 査大受率いる明軍先鋒2千人は峠で少数の日本軍を発見すると攻撃を加えてきた。山中に誘い込むことに成功した十時惟道内田統続は、明軍を激しく銃撃して撃退したのである。ところが、敗走する明軍を追撃していくと、新たに明軍7千人と遭遇したのであった。立花軍は包囲を受けて忽ち危機に陥ったのである。

 この状況を見て、宗茂本隊2000人で明軍の側面に突撃した。予想外の攻撃に明軍は動揺し、敗走していった。この戦いには、天野源右衛門(旧明智家臣・安田国継)も参加していて、この時の激戦を記している。

 やがて小早川隊が到着すると。疲労の色が濃い立花隊は小丸山に退いた。漢城に退けという、大谷吉継の要請を断り、宗茂は、なおも在陣した。

 

 午前10時頃、明軍2万人は三隊で高陽原に押し寄せてきた。

 これに対して日本軍は碧蹄館南面に布陣した。宗茂・直次・吉川広家が左方に、宇喜多秀家、毛利秀包・元康・筑紫広門が右方に埋伏したのである。

 午前11時、小早川隆景の先陣・粟屋景雄が正面から明軍に激突した。しかし、粟屋隊は明の大軍を前に退却を余儀なくされる。勢いに乗った明軍はこれを追撃するが、これが罠である。前線が突出した明軍を井上景貞隊が側面から攻撃し、銃撃を始めると明軍は混乱した。そこに隆景本隊もすかさず突撃したため、明軍は後退を始めたのである。さらに宗茂は合図の鉄砲を撃たせ、太鼓をたたくと、埋伏していた日本軍が一斉に現れた。こうして日本軍は三方包囲策により明軍前衛を壊滅させたのである。

 

 碧蹄館の北側に陣取っていた李如松は前方の部隊が壊滅したため、直接日本軍の攻撃を受けることになった。日本軍の猛攻に曝された李如松は、迫りくる攻撃のために何度も落馬し、親衛隊の犠牲の上に命辛々戦場から逃げ落ちたのであった。

 

 宗茂はなおも追撃を主張したが、小早川隆景は後方には明軍の重火器部隊が温存されていることを察知し、漢城に引き上げることにしたのである。

 

 漢城を押さえようとした明軍は速度を重視した騎兵中心の編成であった。足の遅い歩兵・火器を後方に温存したのである。

 碧蹄館周辺は狭隘な渓谷であり、前夜からの雨で泥濘地と化していたため、騎馬に不利な地形であった。宗茂により碧蹄館の地に誘導された明軍は騎兵の機動力を活かすことが出来なかったのである。

 

 この敗北によって李如松は戦意を喪失したのである。明軍は一旦、開城に撤退すると、さらに平壌まで後退した。李如松は武力による日本軍撃退は不可能だと悟り、講和交渉へと方針を転換したのである。

 

 柳成龍懲毖録において、「李如松提督が率いていたのは皆、北方の騎兵で火器を持たず、切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊は歩兵でその刀剣はみな3,4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので、人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督は後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者が甚だ多かった。日暮れに提督は坡州に戻った。その敗北を隠してはいたものの、気力を沮喪すること甚だしく、夜には親しく信頼していた家丁の戦死を痛哭した。」と記した。

 

立花宗茂