天海 ㊽

 

 

 

 朝鮮水軍の活動は秀吉の耳にも入った。

 6月14日、後方輸送に従事していた脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明が釜山浦に集結した。秀吉は6月23日の書状で、この三人に朝鮮水軍の掃討を命じたのである。

 脇坂安治九鬼水軍・加藤水軍を出し抜き、7月7日単独で巨勢島に出撃した。8日、脇坂水軍を発見した李舜臣は囮の船を出し、脇坂水軍を巨勢島の東に誘き出したのである。海流に乗って南下した脇坂水軍であったが、そこで56艘の朝鮮水軍の待ち伏せを受けた。脇坂水軍は忽ち窮地に陥り、多くの船が被害を受けた。しかし安治の乗る安宅船は櫂が多く、機動力で朝鮮水軍を振り切り脱出に成功したのである。

 

 さて、この戦いで李舜臣は「見乃梁破倭状」において「大船36隻・中船24隻・小船13隻、合計63隻」を撃破した、と記録している。これを受けて韓国では「日本側の死者数5000~9000人」と主張しているのである。無論、これを裏付ける史料などなく、全て希望的推定である。

 李舜臣が自らの功績を大げさに報告するのは政治的にやむを得ないことだ。しかしそれを検証するのが、本来の歴史学者の仕事であろう。

 

 脇坂安治の所領は淡路国洲本3万石である。1万石につき300人と計算すれば動員数は900人となる。因みに関ケ原の戦いでも動員数は900人であった。この戦役で秀吉から命じられた動員数は1500人であり、恐らく漕ぎ手や雑兵を掻き集めたと思われる。要員をおおよそ安宅船150人、関船100人、小早50人で換算すると、脇坂水軍はせいぜい安宅船3艘、関船6艘、小早9艘といった規模である。これでは始めから朝鮮水軍に勝てるはずがないのだ。

 逃げ遅れた脇坂水軍の200人は船を放棄して、閑山島に上陸して逃げた。また、脇坂隊はこの後も、陸上戦である晋州城攻防戦に900人で参戦しているので、人的被害は多くとも200~300人程度である。

 そもそも日本水軍は総勢で9千人余りであるから、この程度の海戦で「5000人から10000人の死者」が出るはずがないのである。このような出鱈目を教わる韓国の学生は実に可哀想である。

 

 日本は戦後、皇国史観の反省から極端に「歴史」を改竄し、GHQ史観ともいえる歪んだ日本史を捏造した。とくに歴史を職業にする人たちは現在もその価値観から抜け出せていない。

 「歴史修正主義」と言う愚かな言葉がある。科学とは本来真実に向かって進み続ける長い道程である。歴史は常に真実に上書きされるべきものだ。ある特定の史観にとらわれては、永遠に真実には辿り着けない。とくに韓国中国に妙な気遣いをして、その立場を擁護するような態度を取ってはいけない。過去にどのような経緯があっても、間違いは間違いである。彼らの荒唐無稽な主張には、決して同調してはならないのである。

 

 いま、私は豊臣秀吉の時代の話をしているが、近代史においてはもっと深刻である。例えば中華人民共和国は第二次世界大戦における中国人の人的被害は3千5百万人だと主張し、この数字が欧米では真実として独り歩きしている。これに真面に反論できない日本の識者は本当に情けない。

 

 下記のグラフは「中華人民共和国」が国連に提出した人口統計である。大きな人的被害が出ればピラミッドには必ずが残るのだ。しかし、これは実に綺麗なピラミッドである。このピラミッドのどこに3千5百万人の人的被害の傷があるであろうか。このような歴史の嘘は糺さねばならないのだ。