天海 ㊺
5月27日、一番隊と二番隊は合流して、渡河地点を求めて臨津江の下流に降った。行長と清正は和解したわけではないが、敵地で反目する愚かしさに気づいたのであろう。日本軍が渡河すると守備兵は戦わずして逃走したのである。都元帥・金命元も李陽元も平壌まで退却し、日本軍は抵抗を受けることもなく開城に入った。ここから一番隊は平安道に、二番隊は咸鏡道に向かうことになったのである。
全羅道巡察使・李洸は5万人の志願兵を集め、水原に進出した。漢城奪還を企図して脇坂安治の家臣600人が守っていた龍仁城を2千人で攻めた。龍仁城の脇坂軍は良く守り、安治本軍1000人が救援に来ると朝鮮軍は総崩れになった。
開城を占領した日本軍は諸将を漢城に集合させ、軍議を開き、それぞれの分担を決めた。
その結果、平安道は一番隊・小西行長、咸鏡道は二番隊・加藤清正、黄海道は三番隊・黒田長政、江原道は四番隊・毛利吉成、忠清道は五番隊・福島正則、全羅道は六番隊・小早川隆景、慶尚道は七番隊・毛利輝元、そして京畿道は八番隊・宇喜多秀家が担当することになった。
行長は平安道を担当することになり、「これで宣祖らを他将に押さえられる恐れもなくなった。」と軍議の結果に安堵していた。
一番隊は北上を続けた。黄海道の平山、瑞興、鳳山、黄州と攻略し、ついに平安道に入った。ここで黄海道を担当する三番隊・黒田長政も合流し、6月9日、平壌の南に流れる大同江に到着したのである。
行長は柳川調信と玄蘇を派遣し、朝鮮軍に降伏を勧告したが、またしても朝鮮軍はこれを拒否した。宣祖は平壌を尹斗寿に任せると、自身は更に寧辺に逃れたのである。
金命元は、大同江を渡れずにいる日本軍が油断していると判断し、夜襲を敢行することにした。15日夜半、朝鮮奇襲軍は大同江を密かに渡河すると一番隊の宗義智の陣を急襲したのである。義智は当初苦戦したが、何とか持ちこたえていると、行長や長政の軍が救援に駆け付けた。長政も矢傷を受ける程の激戦となったが、結局、朝鮮軍は敗走したのであった。
敗走した朝鮮軍は「玉城灘」という浅瀬を通って退却したのである。大同江の渡河に苦しんでいた日本軍は安全な渡河地点をついに発見したのであった。16日、日本軍は玉城灘を通って大同江を渡ると平壌を目指した。
奇襲部隊が敗れ、日本軍が大同江を渡ったと知って、金命元と尹斗寿は、武器を破棄すると順安に逃れたのである。
行長は朝鮮軍が逃亡したと聞いて、まず立札を立てて民衆を安心させてから入城した。城内には数十万石にも及ぶ兵糧が残されていたという。補給源から遠く離れていた一番隊にとってこれ程の褒美はなかった。行長は笑いが止まらなかったであろう。日本軍は平壌の改築を行うと、三番隊の長政は黄海道に戻っていった。
寧辺に逃亡した宣祖は更に義州に逃れた。義州は明との国境に近く、遼東半島は目と鼻の先である。そこで明軍の援軍を待ったのだ。
明の遼東副総兵・祖承訓は援軍を快諾し、軍勢を率いてついに朝鮮国境を越えたのである。
