天海 ㊹
「倭奴幾ばくも無し、半ば叛民、極めて寒心すべし」 (鶴峯集)
行長は焼け落ちた王宮を見て、漸く一安心した。これで朝鮮との外交交渉が他の武将に露見する心配がなくなったと考えたのである。
「これでは重要書類は何も残っては、おるまいな。」とほくそ笑んだ。
少なくとも公式文書による証拠はないようだ。宣祖一行は平安道に逃げたようであるから、日本軍が捕まえるのは容易なことではなかった。
日本軍は城外に宿営を移すと、漢城の治安回復に努めた。もともと、ここは征明軍の根拠になるべき場所であり、総大将である宇喜多秀家が統治することになっていたのだ。こうして漢城は平常な日々に戻ったという。
行長らは敢えて宣祖を追わず、ここで他の部隊の到着を待つことにしたのである。日本軍にとって釜山・漢城間は補給路として重要だったので、要地に関所が置かれ、兵士が常駐していた。5月7日、全州方面を担当していた三番隊の黒田長政が到着した。
5月2日、七番隊を率いる総大将・宇喜多秀家が釜山に上陸すると、7日には漢城に到着し、ここを本陣とした。10日には毛利勝元ら四番隊が漢城に到着、五番隊は忠清道と慶尚道の守備に就き、六番隊は釜山周辺に展開したのである。
5月8日、平壌に逃れた朝鮮王朝は、漢城から脱出した都元帥・金命元に1万3千人の兵力を預け、臨津江に防衛線を築かせた。
行長はこの間、密かに朝鮮側に書簡を送り、講和交渉を打診したが、朝鮮側に拒否されている。この後も行長は、この戦争を無意味と考えて、朝鮮側が早く講和に応じるよう何度も働きかけたのである。
5月10日、先陣を受け持った二番隊の加藤清正は臨津江に到着した。行長は既に清正と先陣を争う理由がなくなったのである。臨津江は水深も深く、流れも速かった。対岸には朝鮮軍が防御を固めていて、南岸には船もなく、住宅も悉く焼払われ、どうにも渡河する手段がなかったのである。さしもの清正も攻めあぐねたのであった。
5月14日、またしても行長は「仮途入明」を説いて朝鮮側に講和を求めた。交渉に当たった柳川調信は清正に一旦退いてもらい、伝令を司る承政院に書を届けたのである。
清正軍の撤退を見た朝鮮軍防禦使・申咭は、これを退却と見誤り、今こそ追撃すべきだと主張した。これに一人反対した劉克良は「臆病者」と罵られたので、憤然として「死を恐れるものではない、国家の大事を恐れるのだ。」と言い放った。面目を失った劉克良は自ら兵を率いると、暗闇に乗じて渡河を敢行した。18日早朝、河畔に残っていた加藤軍を包囲したのであった。しかし加藤軍は高地に陣を布いていたので、朝鮮軍の猛攻にも動じなかったのである。
清正は直ちに軍を引き返し、救援に駆けつけた。駐留していた加藤軍を落とせないまま、清正の本軍に攻められた朝鮮軍は総崩れとなり、劉克良、申咭、洪鳳祥が戦死した。逃げ惑う多くの将兵が川を渡れず、撫で切りとなり、朝鮮軍は壊滅したのである。
宇喜多秀家
