天海 ㊸

 

 

 

 かつて朝鮮が高麗王朝だった時代に、モンゴルの激しい侵攻を受けたことがあった。その時、高麗王朝は江華島に逃れて、多くの国民がモンゴル軍に蹂躙され、殺されるのを放置した。九度にわたる侵攻で国土は焦土と化し、無数の人命が失われ、多数の捕虜が連れて行かれたのだ。女たちは凌辱の限りを尽くされ、「胡水満腹」と呼ばれるほど、多くのモンゴル兵の子を産まされた。その痕跡は民族のDNA構成にも残るという。最終的に高麗はモンゴルに屈して属国になるのであるが、その国王・高官の愚劣さは胸糞が悪くなるほどである。

 

 宣祖一行逃避行は途中から激しい雨に打ち据えられた。国王が国民を見捨てて逃げる姿に、村々の民は国王を蔑み、迎え入れようとはしなかった。

 碧蹄の辺りから余りの辛さに、脱落者が出始める。臨津江に辿り着くと、河岸に一行を乗せる十分な船がなかった。国王の従者たちは日本軍から逃れようと、我先にと船を奪い合ったので、力のない者は船に乗れなかった。その上、先に渡った者も船を帰さず、その場で焼払ったので、多くの者が、対岸に取り残されたのである。

 臨津江を渡り終えた頃には、付き従う従者が余りに少なくなり、もはや開城に向かうことさえも出来なくなってしまった。すると黄海道巡察使・趙仁得が数百人の兵を連れて救援に現れ、一行を開城まで連れて行ったのであった。

 

 4月30日の夕刻、宣祖一行は開城に着いた。開城では多くの民百姓が集まり、国王をなじり、石を投げ、慟哭したという。

 5月1日、宣祖はこの危機を乗り切るために、人事の一新を試みた。この度の外寇を招いたとして領議政李山海が罷免され、左議政柳成龍がこれに就いた。左議政には崔興源右議政には尹斗寿をあてた。

 宣祖が南大門で国民と対話すると、鄭澈の復権を求める声と柳成龍を非難する声が溢れた。そこで宣祖は、朝に発した人事を変更し、柳成龍を辞職させたのである。まさに「朝令暮改」である。

 

 漢城を目指す一番隊は雨に行く手を阻まれ、あろうことか道に迷った。慌てた行長は、本隊を残し、先発隊だけを引連れて漢江を渡河し、5月1日の夜、何とか漢城に到着した。

 

 一方、二番隊もまた激しい雨に行く手を遮られ、5月2日に漸く漢江に到着できた。しかし漢江は大河で船がなければとても渡れなかった。

 清正は「誰か対岸まで泳げるものはいないか。」と募った。そのとき、曽根孫六が名乗りを上げ、漢江を対岸まで泳いで渡り、船を奪って引き返したのである。さらにこれを使って複数人が漢江を渡り、再び船を奪ったので、二番隊は漢江を渡りきることが出来たのである。

 都元帥・金命元は僅かな守備兵で首都を守っていたが、日本軍を見ると忽ち戦意を喪失し、城から逃げだした。このため漢城の守備兵雲散霧消したのである。

 

 5月2日、朝鮮の首都・漢城陥落した。行長が上陸してから21日後のことである。日本軍が入城した頃には王宮はほとんど焼け落ちていた。民衆の多くは日本軍を歓迎したという。「日本史」の著者ルイス・フロイスも、「朝鮮の民は恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している。

 

加藤清正