天海 ㊴

 

 

 天正19年9月23日、家康奥州の仕置を終えて、葛西大崎13郡を政宗に引き渡した。徳川勢はようやく関東に戻れたのである。家康は直ちに征明軍の編成に入った。しかし、徳川勢は疲労の色が濃く、編成は遅々として進まなかった。

 

 一方、秀吉の征明遠征軍は着々と準備が進んでいた。このような成り行きに冷や汗をかいていたのが小西行長宗義智である。当時一般的に「朝鮮は対馬に朝貢している。」との誤解があったという。「日本史」の著者ルイス・フロイスも「朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いている。しかし実際は朝鮮国から「倭寇対策料」として100石余が下賜されているに過ぎなかったのだ。宗氏は誤解を解くどころか、見栄を張って訂正もしなかったので、このような噂が流布したのであろう。

 このため秀吉は朝鮮が帰服するのは当然のことと考えていたのである。朝鮮通信使を服属の使者と偽ったのも、自分が付いた嘘が露見することを恐れたためであった。義智は外交僧・景轍玄蘇を再三派遣し、両者が妥協できる合意を探ったが、当時、朝鮮は根拠なく日本の軍事力を軽視していて、義智の説得を聞き入れる余地は全くなかったのである。

 

 天正20年正月、総勢21軍、30万人の征明軍編成が始まった。秀吉は2月に渡海して、朝鮮を経由して明に入る計画を発表したのである。

 嘘の露見を恐れた行長義智がまず朝鮮帰服の様子を確かめるべきだと進言した。朝鮮通信使が来たことだけをもって朝鮮が帰服したと信じるのは危険であると説いたのである。確かに上陸に乗じて朝鮮が罠を仕掛けてくる可能性はあった。

 

 自らの嘘で進退窮まった行長は、一旦は帰服した朝鮮が突然、心変わりをしたとの新たな嘘をついた。朝鮮が征明軍の通過を拒否していると言ったのである。朝鮮交渉の責任者として、面目を失った行長であるが、責任は朝鮮側にあるとして急場をしのいだのだ。そして、ついには自らが先鋒を務めると言い出したのである。他者が先鋒となって先に王都に入り、朝鮮方から義智と朝鮮の交渉内容が露見することを恐れたのであろう。

 1月18日、秀吉は行長の言い分を認め、3月末までに様子を見て復命するように指示した。もし朝鮮が従わないのならば、4月1日にまず朝鮮から征伐するとの号令が出された。

 最後通牒の役目を担った玄蘇は朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなければ、朝鮮が征明軍の通過を許可するように交渉した。朝鮮側の返事は要領を得ないものであった。4月7日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた。これによって征明軍は征朝鮮軍となったのである。

 

 東国の軍勢は奥州仕置を終えて間もない事から到着が遅れていた。2月27日、家康1万人の兵を連れて入京した。秀吉は家康の軍が思いのほか少ないことに怒り、不機嫌であったという。

 3月15日には軍役の動員数が発表された。四国、九州勢は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の4ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆・若狭・越前・能登・加賀は300人で越後・出羽200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令されたというのだ。

 諸大名が外征する時の最大人数を計算する時、概ね一万石に付き250~300人を基本にする。この場合、自国の最低限の防衛隊は除外している。それにしても1万石に600人は余りに過剰である。では現実の動員数を見てみよう。

 

宗義智