天海 ㊳

 

 

 

 朝鮮国は内紛の多い国で、国論が二分して話がまとまらないことが常である。

 天正19年(1591年)3月に朝鮮通信使は帰国した。派遣当時、朝鮮王朝の実力者は西人派鄭澈であった。それで、正使西人派黄充吉で、副使東人派金誠一であったのだ。ところが帰国すると、西人派鄭澈は失脚し、東人派柳成龍が王朝の実権を握っていたのであった。正使の黄充吉が「必ず兵禍あらん。」と日本の侵攻を警告したが、副使の金誠一が「大げさである。」として、これを否定したのである。軍監で同行した黄進は、余りの無責任さに激怒し、金誠一を斬り捨てようとしたと言う。そのような有様で結局、対日戦争に対する備えは全くなされなかったのである。

 

 天正19年1月20日、ついに征明遠征軍の準備が始まった。秀吉は10万石に付き大船2艘を作ることを命じ、翌年までに摂津、播磨、和泉に集結するように命じたのである。

 8月23日には「征明遠征」に対して不退転で臨む覚悟を諸大名に宣言した。宇喜多秀家はこれに積極的に賛成したが、他の武将は渋々同意したようである。この時、家康は不在であったので、秀吉が恣意的に既成事実化したものと思われる。

 

 秀吉は征明の前線基地として名護屋城の築城を指示した。黒田孝高に縄張りを命じ、浅野長政を総奉行に任じて、九州諸将に普請を分担させたのであった。

 名護屋城は波戸岬の先端にあり、何もない荒れ地に築かれたのである。五重の天主閣御殿が作られて、周囲には120ケ所もの陣屋が置かれた。最盛期には人口10万人を数え、征明遠征の時期には政治経済の中心地になったのである。

 

 その頃、家康は一揆制圧を直政らに任せ、荒廃した葛西・大崎13郡を検地し、城砦改修などを行っていた。

 「関白がいよいよ唐入りに動き出したそうですが、我らはどうなるのでしょう。」と康政は尋ねる。

 「佐渡からの知らせでは、我等も船を作らねばならないようだ。」と家康は言う。徳川家が建造しなければならない船は、240万石として大型船が48艘である。

 「おおよそ50艘ではありませんか。」と康政は困惑する。

 

 徳川水軍本多重次武田水軍衆を接収したことに始まる。小田原征伐では旧武田家臣の向井正綱御船手奉行となり、北条水軍を破っている。正綱は徳川家が関東に移封となると相模国等に2千石を与えられている。

 

 「新領地の関東に移封され、一揆の制圧に駆り出され、今はこんな所で検地などをやっている。挙句に唐入りとは。こんな状況で船の建造等、間に合うのでしょうか。」と康政は憤る。

 「佐渡には直ちに取りかかれと言っているが、容易なことではあるまい。」と家康が言うと、

 「当家はまだ水軍がありますが、山中で海のない大名はどうするのでしょうか。」と康政が憤懣やる方なく言う。

 「そうさなぁ。」と家康は腕を組むと、信濃の山の中で船を作る仏頂面の真田昌幸を想像して噴き出した。

 怪訝な顔の康政に、「ああ、済まぬ、済まぬ。」と謝り、

 「まぁ、船大工にでも発注する他あるまいな。」と首を傾げたのである。

 (そりゃそうだろう。)と康政は思った。

 

 

名護屋城