天海 ㊲

 

 

 

 実は秀吉は長浜時代に石松丸と言う男子がいたという。伝承では長浜の曳山祭り石松丸誕生を祝ったのが始まりだというのだ。しかし、私は実子であったかどうか、懐疑的である。この子は「秀勝」と名付けられているからだ。養子にした信長の四男も「秀勝」であり、三好吉房の次男にも「秀勝」の名が与えられている。いわば「秀勝」とは養子の名である。

 秀吉は「秀勝」と言う名に愛着があったという人もいるが、では何故、「拾」には、「秀頼」と名付けたのであろう。そもそも、「秀勝」は「長秀」と「勝家」から取った名である。いわば秀吉の処世術であり、愛着を感じるような名ではない。

 

 天正17年(1589年)5月27日、秀吉と側室・淀殿の間に嫡男「」が生まれた。この時、秀吉は53歳、淀殿は21歳である。この奇妙な名は「棄てられた子は良く育つ」という俗信によるものである。

 

 秀吉は狂喜乱舞したという。恐らく実子であることを疑わなかったのであろう。実は不妊症のほぼ半数は、男性が原因である。秀吉は宣教師から「淫獣」と呼ばれるほどの女好きであった。それなのに子供が出来ないのであれば、先天性の「無精子症」を疑うべきである。特に秀吉の場合、性染色体異常や遺伝子異常の可能性があると私は考えるのだ。であるとすれば、本来子供ができる訳がないのである。

 

 秀吉は生後4か月で「棄」改め鶴松を後継にしようと考え、母子ともに大坂城に招き入れた。天正18年(1590年)に、大坂城で年賀を受けて、2月13日には聚楽第に入る。その後、秀吉が小田原征伐に出かけている間は大坂城で過ごしたのだった。

 この頃の乳幼児の死亡率は高い。早くも7月27日には病気になり、春日神社で祈祷して全快したという。

 

 9月20日、東国から凱旋した秀吉は、11月に朝鮮通信使節を引見する。この時、鶴松が使節の前で小便を漏らし、使節を憤慨させている。

 天正19年(1591年)1月に入ると鶴松はまた発病する。秀吉は全国の寺社に祈祷をさせ、名医を集め、再び回復する。

 

 ところが、8月に入ると、またもや鶴松は病に罹る。秀吉は再び日本中の神社仏閣に平癒の祈祷をさせ、全国から名医を集めたのだ。しかし、その甲斐もなく8月5日に鶴松は淀城で息を引き取った

秀吉の落胆は甚だしかった。自ら髻を切り、喪に服すと、家康輝元らも剃髪したのである。8月6日、妙心寺で鶴丸の葬儀が執り行われた。その後、傷心の秀吉は、有馬温泉に湯治に行ったのであった。

 

 秀吉は方広寺の大仏の隣に祥雲寺を建て、菩提寺とした。この一連の出来事を見るに、秀吉は鶴松を自らの実子であると信じていたようである。鶴松の死が与えた政権への影響は余りに大きかった。

 

 この年の11月、秀次が秀吉の養嗣子となった。11月28日には権大納言に任ぜられ、12月4日には内大臣になったのである。

 12月28日、秀次はついに関白に就任した。就任に先立ち、秀吉は「五ヶ条の訓戒状」を出し、天下人としての心得を説いている。秀吉は、今後関白職を豊臣家が世襲することを内外に示すとともに、内政を秀次に任せ、自らは「唐入り」に専念する体制を整えたのである。

 

 

 

豊臣鶴松