天海 ㊱
三沢庄兵衛は伍助を連れて、京都に来ていた。表向きの目的は妻木家に依頼された諸物の買い付けである。つまり庄屋である庄兵衛は妻木家の御用商人でもあった。このため定期的に上方を回っているのである。
最初に訪れたのは京都のはずれにある鄙びた古寺である。外観は古びているが、建物はしっかりしているのだ。ここには坂本城を逃れた明智一族の女房衆がいる。庄兵衛は珍しいお土産を持ってきてくれるので、いつも大歓迎されるのだ。
倫子は鞍馬寺に入った与平次の件で、弥平次に一度帰って欲しいと懇願する。倫子はどうしても与平次を武士にしたくないようである。
利三の子供たちのうち、長男と次男は山崎の戦いの後、近江で死んでいる。三男の利宗は細川忠興に預けられ、小牧長久手の戦いで軍功を上げた。現在は肥後国の加藤清正の下で5千石の知行を得ている。
五男と言われる三存と次女、三女(福)は稲葉家に預けられた。一鉄が存命中のことなので、「とても見ておれん。」といって美濃国清水城に引き取ったのである。
その福が三条西家に公家の素養を身につけるため出仕しているという。そこに届け物をして、その様子を見て欲しいと利三の妻・安に頼まれたのであった。
三条西家の先代の公国は一鉄の妻の甥という。公国は正二位内大臣にまで出世していた。この名家で素養を身につけることは福の将来に大いに貢献することであろう。
「うむ、実に利発な子であったな。伝蔵。」と庄兵衛は伍助に言った。
「庄兵衛様、ここでは伍助でございます。」と訂正する。
阿寺伝蔵が美濃を出て、旅に出るときは、「商家の奉公人」または「農民」に身を窶して「伍助」を名乗るのだ。
天正2年(1574年)阿寺(明照)伝蔵の主家である阿寺城主・遠山友重は東濃の戦いで滅亡した。その後、残党が武田方に付いたため、信忠の岩村城攻めで、一族郎党も皆殺しにされたのである。辛うじて生き残ったものも武士を捨て帰農したのであった。
若年だった伝蔵もしばらく農業で生計を立てていたが、所詮、土地を持たない貧乏暮らしに嫌気がさし、仕官先を探すようになった。そして、庄兵衛に見出されたのである。
「おお、遠山一族か、ならば親戚のようなものだ。」と庄兵衛は大いに喜んだ。以後、庄兵衛の右腕となっている。
最期に庄兵衛は妙心寺瑞松院にいる玄琳を訪ねた。瑞松院の檀那は妻木家である。また、玄琳は大心院主・三英瑞省に師事していたのであるが、三英瑞省の旦那は細川忠興である。妻木家と細川家は陰に陽に明智一族を援護してくれているのだ。
玄琳の元気そうな顔を見て、庄兵衛は涙が出そうになった。息子とはいえ、若い頃の光秀と実によく似ているのだ。
庄兵衛の胸に越前で過ごした青春の日々が蘇る。弥平次や伝五や次右衛門と過ごしたあの頃、あの時代。「あれから、どのくらいたったのだろうか。」と庄兵衛は天を仰ぐ。まだ何者でもなかった若かりし日々が無性に懐かしかった。
妙心寺 三門