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 6月14日、政宗は一揆の制圧に出陣した。政宗に対する疑惑は、晴れたとは言い難く、何としても成果を上げねばならなかったのである。力攻めする伊達勢の被害は甚だしく、重臣も相次いで戦死した。それでも7月4日には、何とか寺池城を落とし、一揆勢を降伏させた。さらに8月14日には一揆勢の主だったものを全員殺害し、証拠隠滅を図ったのである。

 

 そもそも、奥州の反乱は秀吉の杜撰な仕置が原因である。奥州では葛西・大崎一揆のみならず、和賀・稗貫一揆が発生している。また出羽においても仙北一揆、藤島一揆が発生しているのだ。

 南部信直は一揆勢に囲まれた鳥谷ケ崎城の浅野家代官を救出するも、降雪により三戸に退却した。その南部領内においても一族衆の九戸政実が信直と対立し、内戦状態になる。窮した信直は、秀吉救援を求めたのである。このように奥羽全域が不穏な空気に包まれていた。

 

 秀吉はついに奥州再仕置を決断した。白河口秀次を総大将として3万軍が集められ、そこに家康徳川勢が加わった。

 軍の編成は仙北方面上杉景勝津軽方面前田利家相馬口石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が配置された。ここに伊達、最上、秋田、津軽の軍勢が再配されたのである。

 再仕置軍は一揆勢を駆逐しながら北上し、氏郷・長政勢と合流した。そして、ついに九戸城に辿り着いたのである。この時、再仕置軍は6万5千人であった。徳川勢から井伊直政が参加している。城方の九戸政実5千人余りの兵で良く守ったが、次第に城兵の被害が大きくなり、最後は長政の降伏勧告を受け入れたのであった。ところが、長政の助命の約束は反故にされ、城内にいた者は二ノ丸に押し込められて皆殺しにされたという。二ノ丸には火が懸けられ、三日三晩に渡り燃えたという。これ以降、豊臣政権に対する組織的な反抗はなくなり、本当の意味で天下統一がなったのである。

 

 この一連の内戦で旧木村領の葛西・大崎は荒廃した。家康はここを検地し、城砦の改修を行ったのである。

 戦後、奥州の再仕置が実施された。葛西・大崎13郡、30万石政宗に与えられることとなり、木村吉清改易となった。一方で、政宗は本領6郡44万石を召し揚げられ、氏郷に与えられた。

 結果として、政宗米沢城72万石から、岩出沢城(後に仙台城)58万石へ減封となり、氏郷会津42万石から91万石に加増となったのである。

 このほか最上義光、相馬義胤、岩城貞隆、津軽為信、戸沢光盛、南部信直所領安堵となった。

 

 この奥州仕置を改めて見ると、秀吉が過去の経緯などを一切無視して、一方的に実施したことが分かる。恐らく秀吉自身が、東北地方に全く興味がなかったのであろう。このような杜撰さが一揆の要因であることは間違いない。

 秀吉の関心はすでに朝鮮にあり、箱根から先は家康氏郷に任せることにしたようである。実際、文禄の役も関東・奥羽の諸将は渡海を免じられている。このことは家康にとって幸運であった。秀吉にとって関東・奥羽は朝鮮より遠方の僻地であったのかも知れない。要するに関東・奥羽の大きさ、重要性を全く理解していなかったのである。