天海 ㉝

 

 

 利休の遺偈の意味は実に難しい。意訳すれば、まず「人生七十」とは自分の人生を振り返っているのであろう。「力囲希咄」とは良く分からない。一説では気合を入れているのだという人もいる。「吾這寶剣 祖佛共殺」は、利休は宝剣を持って、「祖佛」を殺すということだ。これは禅の言葉らしく、「自分を抑え込もうとするものは祖先、父母、仏であろうと許さない。」ということらしい。「提る 我得具足の 一太刀」は、利休はその身を具足で固めている、つまり武装していて太刀を帯びているということである。一太刀とは敵わぬまでも歯向かうということか。そして、「今此時ぞ 天に抛」といっている。天とは秀吉のことであろう。信念を曲げず、この命さえ投げうつと、言っているのである。

 

 とても茶人の句とは思えない。これはまさに武人の言葉である。天下人である秀吉に、一歩も引かず、命を懸けて挑んでいるのである。

 利休奪還を恐れた秀吉は上杉景勝勢3千人で屋敷を包囲した。さらにその首を一条戻橋で木像に踏みつけられるように晒したという。聚楽第利休屋敷も直ちに解体された。

 

 江戸に戻っていた家康は、利休切腹の報に接し動揺する。

 「オ、オレは知らんぞ。佐渡、これはどういうことだ。」

 「はて、まるで分りません。公には、大徳寺の山門を改修するにあたり、駄履きの利休殿の木像を楼門の二階に設置した罪とのことでございます。」と正信は言う。

 「それは、どういう意味だ。」と家康が首を傾げると、

 「関白殿下が山門を通るたびに、木像雪駄で頭を踏みつけることになるということです。」と説明したが、その正信も首を傾げ、何とも不可解な顔をした。

 「そうすると大工が殿下のおわす宮殿の屋根を直したら、忽ち不敬で死罪になるな。これではおちおち、雨漏りも直せぬ。」と言うと、家康から笑みがこぼれた。

 「さすがに普請中には、殿下はおりますまい。」と言うと二人は、くすくすと笑ったのである。

 

 「そもそも木像を設置したのは住職らしいです。難癖も甚だしですな。いずれにせよ本当の理由があるのでしょう。大和大納言様がお亡くなりになるのを待っていたように利休様を亡き者にしたということは、家中に権力抗争があったと考えるべきでしょう。」と正信は確信したように言う。

 「秀長公と利休殿に取って代わりたいとなれば、やはり三奉行か。」と家康は不快気に言う。

 「御意、大和大納言様のご逝去を待てぬように、殿下は前日に唐入りを発表なされました。恐らく三成らは唐入りを利用して、大納言様や利休様を追い落したのでしょう。」と正信は推量する。

 「証拠はないがな。何とも愚かしい事だ。佐渡、上方の情勢を探れ、何か大変なことが起きているやも知れぬ。」と家康は懸念した。

 

 家康は考える。利休には恐らく、秀吉の監視が付いていたはずである。それを承知で、敢えて家康を茶会に招いた。秀吉は家康が唐入りに公然と反対することを恐れていたはずである。それで先手を打って利休を殺した。反対勢力が結集することを阻止したかったのであろう。では、利休は危険を承知で、何故家康を巻き込んだのであろう。それは、秀吉の難癖には絶対屈しないという、利休の心意気であったか、と思う。

 「後は頼む、とか利休、そんな事オレは知らんぞ。」と家康は呟いた。

 

聚楽第

左上に宗益(利休)の館がある