天海 ㉜
豊臣秀長、享年五十二歳、戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」であった。ちなみに「亜相」とは、大納言という意味である。
葬儀の導師は流罪先の九州より戻っていた大徳寺の蒲庵古渓であった。古渓は信長の葬儀にも導師を務めた名僧であったが、天正16年(1588年)石田三成と衝突して九州に流罪となっている。古渓は千利休の取りなしにより、許されて京に戻っていたのであった。
秀長の葬儀には二十万人の人が訪れ、野も山も人で埋め尽くされたという。この葬儀には家康も参列していたようである。
1月24日、家康は利休と密かに茶会を開いた。大名の茶会は元来、政治色が強いものであるが、時期が時期だけに憶測を呼んだことであろう。
「おいたわしや、まだ50歳を過ぎたばかりなのに、心残りもございましたでしょうな。」と家康が言うと、利休は静かに頷き、
「武蔵大納言様もお聞き及びかと存じますが、関白殿下はこのところ唐入りのお話ばかりでございました。」と利休は言った。
「そうでございましたか。」と家康は少し驚いたような顔をしたが、もちろん知っている。(正気の沙汰か?)と内心、訝しんでいるのだ。
「大和大納言様と私めが必死でお諫めしておりましたが、このような事態となり、関白殿下にご意見を言えるお立場の方が誰もいなくなってしまいました。」と利休は無表情に言う。そうだ、齢70歳のこの老茶人は凡そ表情というものがない。百戦錬磨の家康ですらぞくぞくするような気味悪さがある。
(一種の妖怪であるな。)と家康は思う。
「私如きは最近、臣従した新参者でございますれば、大和様の足元にも及びません。」と家康は婉曲に断った。
「そうですか。」と利休はいうと、「また、多くの血が流れますな。」と素っ気なく言った。
利休の茶会はあっけないほど短時間で終わった。想像していたような、きな臭い話はなく、要点としては「唐入りに反対している」、「三成ら若手官僚には気を付けること」、そして「後はよろしく頼む」ということくらいであった。
「うん?後はよろしく頼むとはどういうことだ。」と家康は思った。
(そもそも、この茶会は何であったのか。)と家康は考える。その答えはすぐに分かった。家康と茶会を開くこと自体が、政治的意味を持っていたのだ。
2月14日、利休は突然、秀吉の逆鱗に触れ、京都を追放された。そして堺に蟄居させられたのである。これに驚いた前田利家、古田織部、細川忠興らは助命のために奔走したのであるが、2月25日には切腹を申し付けられる。京都に呼び戻された利休は28日には聚楽屋敷内で切腹した。こうして豊臣政権は千利休も失ったのである。
「利休が死の前日に作ったとされる遺偈が遺されている。
人生七十 力囲希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)
提る 我得具足の 一太刀(ひっさぐる わがえぐそく ひとつたち)
今此時ぞ 天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)
— 久須見疎安『茶話指月集』(元禄14年(1701年))」(Wikipedia)
千利休