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 秀長は秀吉の生母・の再婚相手である「竹阿弥」の子として生まれたという。このため幼少の頃は「小竹」と呼ばれていたようだ。兄・秀吉が14歳で家出をしたとき、秀長はまだ11歳であった。その後、秀長は小一郎と名乗り、地元で農業に携わっていたという。

 永禄4年(1561年)、秀長22歳のとき、帰村した秀吉に見出され、武士の道に進むことになる。

 

 その後、秀長は墨俣城の建築等、秀吉の出世に大いに貢献したようである。傲岸な兄・秀吉と異なり、謙虚な姿勢で人に接したため、多くの武将に慕われたという。

 秀吉が中国攻めを担当するようになると、秀長は山陰道方面を担当して、独立軍を指揮するようになる。天正8年(1580年)但馬国を平定すると、但馬国7郡10万5千石と播磨国2郡を与えられている。

 続いて山崎の戦い、賤ケ岳の戦いに参加し、播磨(38万石)・但馬(11万石)二カ国を拝領した。

 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで、別動隊を率いて織田信雄の領国の伊勢を攻め、信雄を講和に追い込んでいる。

 天正13年(1585年)紀州征伐で副将となり、紀伊国・和泉国64万石四国攻めでは総大将として、10万余の軍勢を率いている。この功績で大和国を加増され、100万石となり郡山城に入っている。このため大和大納言と呼ばれた。

 

 どうもこの頃から体調を崩したようで、それ以降は、余り軍事行動には参加せず、政務に専念したようである。

 天正14年(1586年)には有馬温泉で養生に努めた。(「多聞院日記」)

 小牧長久手の戦いで戦った家康がついに上洛をしたとき、秀長邸に宿泊したと言われ、その夜に秀吉自らが訪ねたという。

 

 本人の生活は質素であったというが、秀長には吝嗇の噂が絶えなかった。九州征伐の時には諸将に兵糧を高値で売りつけようとして、秀吉に叱られた。また、紀伊国で売買を禁じられていた材木を代官が売り捌き、代金を着服した事件では、秀長の責任も問われ、秀吉から年頭のあいさつを拒否される事件も起こしている。

 

 天正18年(1590年)、小田原征伐の時、秀長の病状は悪化していて、軍事行動には参加できなかった。10月には、秀長の甥・秀次が回復祈願のために談山神社に訪れているから、病状は思わしくなかったのであろう。

 天正19年(1591年)1月22日、秀長は居城の郡山城内で息を引き取った。死因は結核と言われているが、実は暗殺説もあるのだ。当時の医師・曲直瀬玄朔が「医学天正記」でヒ素中毒を疑っているからである。

 

 男子がいなかった秀長の家督は、甥の秀保が継いだ。

 郡山城には金子56,000枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になる程、備蓄されていたという。(多聞院日記)。このため、秀長は私腹を肥やしていたとの批判は多いのだ。

 しかし、私は、これも秀吉の行く末を心配しての蓄財であると思う。本人は質素な暮らしぶりであったというから、何かと金遣いの荒い秀吉の将来に危うさを感じていたのであろう。秀長には常に兄に対する配慮が伺えるのだ。兄の至らないところは、自分が補佐するという強い意志を感じるのである。

 いずれにせよ、初期豊臣政権を支えた黒田孝高・豊臣秀長・千利休のうち、まず政務を取仕切っていた秀長が消えたのである。

 

豊臣秀長