天海 ㉚

 

 

 

 美濃国土岐郡久尻村は、土岐川の支流である深沢川一帯にある。庄兵衛の屋敷はその村のはずれにあった。

 11月下旬、庄兵衛のもとに、従者を連れた初老の武士が訪れる。

 「これは大殿、お久しぶりでございます。」と庄兵衛は丁重に挨拶をすると、すぐに奥の間に通したのである。

 「庄兵衛殿、久しぶりである。変わらぬようで何よりだ。」というと、どっかりと腰を下ろした。

 「本日は、どのような御用でございますか。」と庄兵衛が問うと、

 「うむ、ここのところ暇だからお茶をごちそうになりに来た。」というと二人は高笑いをした。

 

 実は、久尻村の一部は妻木家の所領である。庄兵衛がこの村で庄屋に収まっていられるのは、妻木家の後援があってのことなのだ。

 庄兵衛のもとを訪れた武士は妻木貞徳といい、西教寺で自害した広忠の子である。光秀の与力であった父・広忠とは異なり、貞徳は信長の馬廻衆を務めていた。自身は謀叛とは無関係であったが、親の責任を取る形で隠居を申し出て、家督をまだ18歳であった頼忠に譲ったのである。それ以降、貞徳は表舞台には出ていない。

 

 利景が東美濃で辛酸を嘗めたように、その頼忠も苦労をしてきた。

 天正10年(1582年)には森長可に攻められ臣従し、人質を取られたうえ、金山城下に移住させられている。その時、妻木城は林為忠が城代として入った。

 天正12年(1584年)、小牧長久手の戦い長可が戦死すると、その弟・森忠政に仕えた。そして、ようやく森家の信任を得て、妻木城代に復帰できたのである。

 

 現在の立場は大殿様と庄屋であるが、二人で酒を飲むと昔に戻るものだ。

 「お殿様はご苦労されているのに、ご隠居様は暢気なものだな。」と庄兵衛がからかうと、

 「何を言うか、オレは表に出ないだけで、裏では何かと苦労しているのだ。」と反論した。

やがて真顔になると貞徳は本題に入る。

 「ところで庄兵衛殿、上方の様子はどうであろうか。」と不安そうに尋ねた。

 

 実は、豊臣秀長の病状が良くないのだ。秀長の病状は世相に大きな影響を与えていた。大和大納言と呼ばれた弟・秀長は温厚な性格で、直情的な兄・秀吉とはうまく対比をなしていたのである。

 秀吉は「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたと言われている。このため、秀長を頼りにしている大名は多かった。

 

 「あまり良いお話は聞きませんな。果たして年を越せるか、との噂も聞きます。」と庄兵衛は言う。

 「そうか、いやはや、どうにも心配ですな。関白殿下にご意見できるのは今や大納言様宗易様しかおらぬという。家中の内情を知る者は、一様に心配している。」と貞徳は嘆息する。

 皆が心配するのは、天下統一を果たした秀吉の箍が外れることだ。こんな大切な時に、秀吉に諫言できる人間を失うことは、政権の不安定さを生み出す。

 

 秀吉は、波乱の天正19年を迎えようとしている。そして、ここから豊臣政権は傾き始めるのである。

 

妻木貞徳