天海 ⑲

 

 

 

 家康は三男・長丸(秀忠)を人質として上洛させるが、秀吉はすぐに送り返した。「私は全面的に従います。」(家康)「大丈夫、信頼していますよ。」(秀吉)という無言の会話であり、阿吽の呼吸である。家康は、領内の駐留・通過を許可し、街道の整備・諸城の使用許可・舟橋の構築を行ったのである。

 

 2月に入ると各大名が出陣を始めた。2月10日、毛利水軍が安芸国厳島から出立、20日に播磨国兵庫に着いた。一方、志摩には九鬼水軍、来島水軍、脇坂安治、加藤嘉明、長曾我部元親らが集結し、水軍の総勢千艘を越えたという。2月27日には清水港に20万石を超える兵糧が搬入された。

 

 2月24日、徳川勢3万人長久保城に到着、織田信雄三枚橋城に着陣した。そして3月3日には豊臣秀次、蒲生氏郷らが到着したのであった。

 3月19日、秀吉本隊駿府城に入り、家康はこれを出迎えた。秀吉が27日に三枚橋城に到着すると、戸沢盛安(出羽)津軽為信(陸奥)の参陣を受けたので、所領安堵を与えた。

 一方、北国軍は3月15日に碓氷峠に進み、28日には松井田城攻めが始まったのである。

 

 「関白の兵士たちは、遠隔の地方の出であったことと、長途の旅とで衰弱しており、豊富な食糧にありつけぬばかりか、その点では不足をさえ告げていた」(フロイスの『日本史』)

「陣中の兵粮が少なくなり、野老を掘って食べている。兵糧1升が鐚銭100文ずつで売られるほどになったが、これもすぐ売り切れてしまった。」(戦国遺文)

 

 2月29日、東海道方面の豊臣軍は北条家の最前線である山中城に迫っていた。その陣容は左翼・徳川軍3万人が「西の丸」方面を担当し、右翼は先鋒・中村一氏、池田輝政、木村重茲、長谷川秀一、堀秀政、丹羽長重18,300人が「岱崎出丸」方面を、中軍は羽柴秀次19,500人(一柳直政1万7千人、豊臣秀勝2500人)で「大手口」方面を担当することになったのである。さらに後備として山内一豊、堀尾吉晴を置いた。

 

 迎え撃つ北条軍は岱崎出丸に老将・間宮康俊本丸城将・松田康長、そして一族衆として若い北条氏勝が増援に入った。総勢は4千人で、城の規模から考えるといささか手薄であった。

 

 山中城は北条築城術を駆使した城で、曲輪の周囲には虎口馬防柵、挟間の防壁、障子堀・畝堀に囲まれていた。有名な障子掘は関東ローム層を利用した数メートルの深さを持つ堀で、一度落ちたら容易に這い上がれない構造になっている。横移動もできないため、頭上から狙い撃ちにされるのである。

 

 さて、兵糧というものは、当時の常識として自軍で確保するものである。しかし数万人の軍隊の兵糧をすべて小荷駄隊で運ぶとすれば、途方もない労力を必要とする。よって不足分は行軍中に現金を持って現地で調達するのが一般であった。

 しかし、家康も秀吉も米を買い集めたので、米の流通量は減少し、東海道の米価は高騰した。さらに現地に近づけば近づくほど流通量は減少し、ついに兵糧米が枯渇するものまで現れたのである。

 

 秀吉の集めた20万石はあくまでも予備の兵糧であり、「なくなったので下さい。」等と言えるものではなかった。その兵糧が枯渇したのは秀次の軍であった。