天海 ⑧

 

 

 

 本多正信から弥平次に呼び出しがあった。

 「遠路で申し訳ないが、上野国長楽寺に赴いてもらいたい。実は徳川家の祖である得川義季様が創建した由緒正しい寺なのだが、相次ぐ騒乱に現在は荒廃している。住職には話をしてあるので、そこで『修行』を積んでいただきたい。」と告げた。

 正信の目は細く、深い皺からは表情が読み取れない。この時、正信はまだ51歳である。弥平次は53歳であるから、何と2歳年下である。

 (どれほど苦労しているのであろうか。どうすればこんなに老け顔になるのだ。)と弥平次は訝しんだ。

 

 「上野と申せば、北条家真田家が角突き合わせ、何かと忙しない土地でございますな。」と弥平次が惚けて言うと、正信は、にやりと笑った。

 「それよ。徳川家北条家は親戚であり、間違いが起こると大変なことになる。我が殿は大変心を痛めておるのだ。修行の合間で良いので、そこで流布している噂を知らせて欲しいのだ。」と言った。

 

 弥平次は徳川領の甲斐から北条領の武蔵に入る。

 どこまでも続く広大な平野に弥平次は目を奪われた。武蔵国といえば荒廃した原野を想像していたのだが、思いのほか豊かな土地である。年貢は四公六民であるという。甲州征伐の時に目にした疲弊し、荒れ果てた甲信地域とは雲泥の差である。

 「世間ではとやかく言われているが、氏政は意外にも名君であるか。」と弥平次は思う。上方では、関東のことはあまり良く語られないのが常だ。

 世良田山長楽寺は旧新田荘で、現在は北条領である。上野・武蔵の国境に近く、北に向かうと真田領の沼田城がある。両家の境界も意外に近いのだ。ここは関東十刹にも選ばれた臨済宗の名刹である。新田家や鎌倉公方等の庇護を受け大寺院となったが、関東に戦乱が続くと衰退した。

 

 弥平次は徳川家からの客人として丁重に出迎えられた。長楽寺にすれば新たな旦那になってくれるかも知れない大大名の使者である。どうやら、僧として修行するところではないようだ。

 「それに、そもそも禅寺では…。」と弥平次は思う。臨済宗もこの機会に学びたいとは思うが、弥平次の宗旨ではない。

 

 「お待ちの方がおいでです。」というので、会ってみると庄兵衛のところの伍助であった。今は小者であるが、文字が読めて行動が機敏で隙がないところを見ると、元は武士かと思う。

 「お久しぶりでございます。庄兵衛様からしばらく同行するように命じられました。」と言った。

 

 坂本城から逃れた三沢庄兵衛は武士を捨て、美濃国久尻村で帰農した。帰農したと言っても、豪農の家屋・田畑を買い取り、村の名主の一人に収まっている。資金の出所は旧明智家の隠し財産であり、ここが新たな明智一族の拠点なのだ。四方に飛び散った一族衆と連絡を取り、相談に乗り、困っているものがいれば援助する。それが今の庄兵衛の仕事だ。ちなみに明智家現当主は弥平次である。

 

 弥平次は長楽寺に居を構えると、すぐに伍助とともに沼田城を見に行くことにした。

 

世良田山長楽寺