天海 ⑦

 

 

 天台宗の法服を身に纏い、弥平次は駿府城を訪れた。姿勢が良く体躯が大きいので、霊験あらたかに見えるから不思議である。

 奥の茶室に入ると上座に家康が、側に正信が控えていた。弥平次は平伏し、丁重に挨拶をすると面を上げた。家康は好奇な目で弥平次を見ていた。

 「おお、左馬助、これは本物だ。安土の折に接待を受けたので間違いない。」というと家康は、正信に笑顔を見せた。

 「このように大納言様にお目見えするのは、真にお久し振りのことでございます。」と弥平次は言った。

 家康は前に見た時より一層丸くなり、戦国武将というより、どこぞのお大尽のように見える。たっぷりと蓄えた脂肪の中からどんぐり眼がのぞき込んでいた。(あれで馬に乗れるのだから大したものだな。)と妙に感心した。

 

 「左馬助、早速だが、本能寺の話を聞かせて欲しい。あの時、明智勢は本当はオレを討取るつもりであったのであろう。」と家康は厳しい口調で言った。

 「御意にございます。我が主、光秀信長より徳川様ご一行騙し討ちの命を受け、思い悩んだ挙句の謀叛にございます。」と弥平次は言う。

 「やはりそうであったか。」と家康は言うと、天を仰ぎ脱力した。

 「何故、信長公はオレの命を狙ったのだ。」と呻くように家康は呟いた。

 「あの当時、信長は自身の健康に不安を感じていて、一日も早く信忠に天下を譲ろうと、何事にも焦っておりました。目に付く大大名は悉く滅ぼし、後顧の憂いを断たんと考えていたようです。その時、若い信忠ではどうしても倒せず、最後まで生き残るのが徳川家である、と思うに至りました。そこで自分の目の黒いうちに、何としても徳川家を取り潰したかったのだと思います。」と弥平次は答えた。

 「そうか、オレも信康の折にそれは感じていた。だが、何とも悲しいものだな。」と家康は本当に残念そうに言った。

 「左馬助、お前の望みは明智家を滅ぼした関白秀吉公に対する復讐であろう。」と家康が言うと、

 「いえ、私は仏の道に入りましたので、いまさら復讐などは考えておりません。私が望むのは只管、天下の静謐であり、民の安寧でございます。この国には多くの大大名がおられますが、この世でこの二つを成し遂げられるのは、駿河大納言様を置いてほかにおられません。何事か大納言様のお手伝いをしたいと存じ、参上いたしました。」と弥平次は言う。

 「そうか。」と家康は頷くと笑顔になり、「ならば、もう少し話を聞かせてもらおう。」と言った。家康と弥平次は正信を交えながら夕刻まで語り合ったのである。

 

 弥平次が利景の屋敷に戻ると、安堵したように利景が出迎えた。

 「その表情は、上々のご首尾であったようですな。」と利景は言う。

 「あぁ、また首が繋がった。オレはなかなか死なないようだ。」と言うと弥平次は、自嘲気味に笑った。

 「しばらく駿府に居ろという事だ。どうやら何かしらのお役目を頂けるようだ。」と言うと、

 「兄者はまた武士に戻られるおつもりか。さすがにそれはまずかろうと思います。」と利景は慌てる。

 「馬鹿を言うな、オレは出家したのだぞ。どこぞの寺に赴くということだ。」と弥平次が言うと、

 「天下の猛将と呼ばれた兄者が、間者の真似事をするのですか。」と今度は少し無念そうに利景は言った。

 弥平次は悔しそうな利景の肩を叩くと、「天下の静謐は武力だけでなせるものではない。仏の知恵もまた必要なのだ。」と言った。