天海 ⑥

 

 

 

 その旅僧は、利景の知己であるという。

 「長聞斎宗行…。知らんな。」と利景は首を傾げる。しかし、どこかで聞いたことがあるような気もする。

 「折角、遠路を訪ねてくれたので、お目に掛かろう。」と言った。

 旅僧は土間で足を洗うと客間に通された。慇懃な態度で正座をすると利景に対し丁重に礼を言った。利景は旅僧を観察したが、知っているような、知らないような不思議な気分になった。すると突然、旅僧が破顔し胡坐をかいた。

 「おい、勘右衛門。お前、まさか兄貴の顔を忘れたわけではあるまいな。」と言うと、呵々と笑ったのである。さすがの利景も腰を抜かして驚いた。

 「や、弥平次兄さん、ど、どうして、ここに。」

 「ああ、大丈夫だ、まだ、オレには足がある。」と言うと、また大笑いするのであった。

 

 「人が悪いにもほどがある。皆、心配していたのですよ。生きているなら何故、手紙の一つも寄こさないのです。」と利景は詰る。

 「天下のお尋ね者が生きていたのでは、お前たちも何かと都合が悪かろう。この頃、漸く世間も落ち着いたので、そろそろ活動しようかと思ってな。」と弥平次は言う。

 「日向守様は如何なされましたか。」と利景は声を潜めて言った。

 「実はオレ達もあれから会っていない。既に死んだと思ってくれ。」

 「坂本城で亡くなったのは何方なのですか。」

 「あれは次右衛門だ。足に鉛玉を受けて歩くのも儘ならず、一人、坂本城に残り爆死した。」と言うと弥平次は微かに俯いた。

 「勘右衛門にも色々迷惑をかけた。」と弥平次は謝った。

 「いやいや、戦後の混乱なので致し方ありません。」と言いつつも、阿子の哀れな最後を思うと胸が詰まった。そして仇敵・長可も、もうこの世にいないのである。

 

 「駿府ではゆっくりできるのですか。」と利景は尋ねる。

 「うむ、それについて勘右衛門に少々願いがある。駿河大納言様に取次を願いたい。」と真顔で言うのだ。

 「いや、いや、兄者は先ほど自分でお尋ね者と言ったではありませんか。殿にお目通りしてご無事かどうか判断がつきません。」と利景は慌てた。

 「あれから随分、時が経っているので、多分大丈夫であろう。」

 「万が一、になったら、どうなさいますか。」と利景は止めた。

 「まさか。」と言うと弥平次はカラカラ笑ったのである。

 

 思い悩んだ利景は本多正信のもとに相談に行った。正信は本能寺の変の少し前に徳川家に帰参したと言われている。しかし、実際には家康の間者として諸国を巡っていたようである。徳川家帰参間もなく家康の側近として活動を始める。酒井忠次が隠居し、石川数正が出奔すると家康には頼りになる相談相手がいなくなった。古参の家臣である忠勝康政は何かと不満であろうが、諸国の事情に通じた正信は徳川家の情報管理の責任者となり、家康の参謀となったのである。

 

 「それは真の話か。」と利景の話に、普段は無表情な正信も驚きの表情を見せた。

 (ほう~驚くと、この人はこのような顔になるのか。)と利景は妙なことに感心した。

 「恐らく勘右衛門殿の兄者をいきなり磔にはせぬであろう。殿は本能寺の話を聞きたがるであろうから、私がそれとなく尋ねてみよう。」と正信は言った。

 「なるべくは、殿のご機嫌の言い時にお願いします。」と利景が言うと、

 「そうか、むふふふ。」と含み笑いをした。

 (なるほど、こんな顔で笑うのか。)と利景はまたも感心したのであった。

 

本多正信