天海 ⑤

 

 

 

 秀満は遠山景行(明智光安)の子として明知城で生まれた。その後、叔父である三宅長閑斎の養子となったのである。若い頃から三宅弥平次として、明智光秀に仕え、その娘を正室に迎えて明智秀満を名乗った。遠山利景は実の弟である。

 素性から言えば明智氏を名乗るべきであろうが、この時代さすがに明智氏の桔梗紋は憚れたであろう。秀満自身も坂本城で死んでいることになっているので、家紋から出自を問われると困るのである。

 それに関東の徳川領内で活動するのなら、家康の旗本である明智遠山氏の遠山利景や旧北条家の名族・武蔵遠山氏を利用する方が好都合である。それで遠山氏を表す「丸に二引き両」を家紋とし、代紋として「三宅輪宝紋」を使用したと思うのだ。

 

 

 本能寺の変(天正10年6月)の時、遠山利景河尻秀隆の与力として甲斐国甲府の守備に就いていた。深夜、東美濃の与力衆は秀隆に呼び出され、そこで初めて本能寺の変を知ったのである。秀隆は甲斐を守備するために与力衆に残って欲しかったのだが、東美濃明智光秀の故地であるため、寝返りを恐れた。そこで苦渋の決断として与力衆に美濃に戻り、所領を守るように命じたのである。秀隆はその後、家康に扇動された一揆衆に敗れ、落命している。

 

 利景は危険な信濃を避け、安全な徳川領を通って美濃に戻ることにした。駿河国江尻城本多重次に温かく迎えられた利景主従は、今後は徳川家の麾下に入ることを誓ったのである。

 ところが東美濃は混乱の坩堝であった。信濃国川中島から兼山城に帰還した森長可は、秀吉に接近し、美濃取次の役を得る。秀吉は東美濃の諸将に長可に人質を差し出すように命じた。止むを得ず、利景は明知城主である一行の長女・阿子を人質に出したのである。

 長可は、肥田忠政を殺し、奥村元広を追放したため、若尾元昌、平井光村、妻木頼忠は戦わずに長可に帰順する。さらに宿敵・苗木遠山城遠山友忠を攻め、三河に追い落とした。このような状況から明知城の利景・一行と小里城の小里光明は身の危険を感じ、家康を頼って三河に逃げたのである。これに激怒した長可は人質であった幼い阿子を磔にした。家康は、一行の娘の阿子が長可によって処刑されたと聞き、利景らに何度も憐みの言葉をかけたという。

 天正12年(1584年)利景らは小牧長久手の戦いで徳川の将として参戦し、東美濃に侵攻して明知城を奪還した。一方、羽柴方で参戦した長可は長久手の戦いにおいて、徳川方の銃弾を眉間に受け即死したのである。

 

 天正14年(1586年)秀吉との講和が成立すると明知城は、羽柴方に引き渡されることになる。失意の利景は再び足助城鈴木重直を頼って落ち延びたのであった。9月になると家康は本拠地を駿府城に移す。ここで家康は軍政を改変し、利景らを旗本として駿府に招き、城下に屋敷を与えたのであった。

 

 山深い東美濃に比べて、駿府は何もかも明るく輝いていた。利景にとって足助城の重直は義父ではあるが、肩身が狭いことに変わりはない。家康から与えられた駿府の屋敷は身分不相応なほど広く、利景らに対する温かい配慮が感じられた。また、一行は将来に備え家康に近習することになったのである。

 「辛い事も多かったが、これからは我等も良い方に進んでいけそうだ。」と利景は庶長子・方景に語った。

 そんな遠山家に一人の旅の僧侶が訪れる。

 

駿府城東門