天海 ④

 

 

 

 それでは天海のもう一つの家紋である「輪宝紋」について、通説ではどのような説明をしているか、見てみよう。

 「輪宝紋は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。」

 つまり、天海の家紋ではなく、お寺の装飾だと言っているのだ。輪宝紋自体は確かに装飾として寺院に飾られることはある。とくに真言宗ではよく見られるのだ。ただ、天海は天台宗で、その輪宝は菊輪宝という全く異なる意匠である。

 そもそもWikipedia自身が、天海の家紋が「丸に二引き両」と「輪宝紋」であると明言し、「今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂日光山輪王寺三仏堂で見ることができる。」と記載している。それなのに、通説でその説明がつかないから、「これは寺の装飾である。」としているのは、どうしたことであろう。

 

 実はこの輪宝紋が、通説では最も説明できない代物なのである。その正体が余りにも明確だからだ。この紋は数ある輪宝紋の中でも「三宅輪宝紋」に他ならない。つまり、このことは天海が「三宅氏」であることを雄弁に物語っているのである。

 

 伝承が伝える蘆名一族出身の随風真面目な修行僧である。その一方で、天海は戦場で鎧を付けたり、権謀術数を弄するなど、武家出身としか思えないような人物である。だから私は、この二人は別人だと思う。

 当時、天海は、無量寿寺北院にいながら、江戸崎不動院の住持も兼任していたという。もう少し詳しく見てみよう。天海は上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院に移り、天海を名乗ったとされる。

 一方で江戸崎不動院では随風として第八世住職(1590〜1607年)を務めている。つまり、天正18年(1590年)の時点では、一人の僧侶が無量寺北院には天海として、江戸崎不動院には随風として存在していたことになる。

 もちろん、随風と天海がどこかで入れ替わったという証拠はない。そもそも、それが簡単に分かるようなら、当時の人も気づいたであろう。天海は何らかの事情で随風の経歴を奪ったのである。

 

 では、ここで少し整理しよう。

 ①   会津出身の随風という僧侶は真面目な修行僧であるが、天海は戦場で鎧を付けたり、権謀術数を弄するなど武家出身と思われる人物である。

 ②   天海は「東叡山開山慈眼大師縁起」において出自を尋ねられた時、自分が会津出身だとは認めていない。

 ③   天海の人脈は遠山氏明智氏が多く、蘆名氏船木氏はいない。

 ④   天海が用いた家紋は「丸に二引き両」紋と「三宅輪宝」紋であり、蘆名氏の「丸に三引き両」紋でも船木氏の「丸に桔梗」紋でもない。

 ⑤   人脈から考えれば、天海の「丸に二引き両」紋は遠山氏由来のものであろう。

 ⑥   もう一つの家紋「三宅輪宝」紋は三宅氏の家紋であり、天海は三宅氏の出身であると思われる。

 ⑦ どうしても自らの素性を公にできない事情がある。

 

 以上をまとめると、天海は「明智一族と深い関係があり、三宅氏の出身でありながら、遠山一族でもある、他人に素性を知られては困る武士」となる。そんな人間がいるのだろうか。

 恐らく私の知る限り一人しかいない。それは明智秀満である。

 

 

三宅輪宝紋