天海 ③

 

 

 

「Wikipedia」

 

 『蘆名説の問題は曖昧な根拠しかないうえに、天海と蘆名氏を結ぶ人脈が何もないことである。例えば、蘆名氏の家紋は三浦であるから「丸に三引き両」である。しかしながら天海の用いた紋(今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる)は「丸に二引き両」と「輪宝紋」であり、蘆名氏のものとは明らかに異なる。しかし、最有力説の船木説であれば問題はない。』

 

 Wikipediaにおいても家紋の問題は記載されているが、残念ながら何を言っているのか、良く分からないのである。

 

 ①   蘆名説は根拠が曖昧なうえに天海蘆名氏を結ぶ人脈がない。

 ②   蘆名氏と天海とは家紋が違う

 ③   船木氏であれば問題はない。

 

 何故、船木氏なら問題がないのであろうか、その説明がない。すでに話したが、船木氏は美濃源氏の土岐氏であり、足利一門ではないから、「丸に二引き両」の家紋は使わないのである。

 

 さて、一般的には足利一門の家紋とされる「丸に二引き両」であるが、徳川氏の「葵の紋」とは異なり、他家でも使うことが出来た。その代表格が、遠山氏である。

 天海が小田原の陣で家康に引き合わせた忠豪は遠山直景の次男であり、遠山氏の出身である。忠豪に続き浅草寺別当になった忠尊忠豪の甥である。天海に深く帰依したと言われる英勝院遠山綱景の孫娘である。

 

 実は、天海が登用した人材には「遠山氏」と「明智氏」に関連する人がとても多く、「蘆名氏」や「船木氏」に連なる人物は一人もいないのだ。だから人脈から考えて、天海の「丸に二引き両」は遠山氏由来のものだと考えられるのである。

 

 家康の旗本に遠山利景という人物がいる。彼は明知城で遠山景行の子として生まれた。その後、出家するも明知城が武田氏の侵攻を受けて、一族滅亡の危機に瀕すると還俗し、勘右衛門利景を名乗った。利景は、長篠の戦いの後、信忠に従って明知城を奪還する。その後も紆余曲折があり、徳川家の家臣となって一族は駿府に住むようになった。徳川家の関東入封の際に上総国に所領を得たという。家康の信任は厚かったようで関ケ原の戦いの際には奏者奉行を務めている。戦後、家康により故地・恵那郡明知城を与えられ、初代・旗本明知遠山家の当主となったのである。

 

 この利景が同じ遠山一族の天海家康に紹介し、天海が武蔵遠山一族の忠豪を引き合わせたとすると、それぞれの関係性が分かる。

 天海が「将軍の御落胤」等と誤解を受けても、頑強に「丸に二引き両」を使い続けたのは、自分が遠山一族であるという、明確な意思表示であったと思うのだ。

 

  喜多院慈眼堂