天海 ②

 

 

 

「天正日記」(内藤清成)

 

 『十月一日かのへうま はれる 王子の御寺御出 小田原引付持参也。(中略)せんばのきたいん参る、志のたの、ふどういんこれは京将軍おとしたね也 ふどういん、めしるへと仰出されど、宇田川源七出る 地わりの事申し付ける。』

 

 上記は天正18年(1590年)10月1日に小田原の陣で書かれた徳川家臣の日記である。仙波の喜多院の不動院は将軍の落し胤である、と言っている。つまり、「足利氏ご落胤説」である。これは同時代の一級史料である。同時に天海が小田原の徳川陣に訪れていたことが分かるのだ。

 「将軍の落し子」というと兎角、奇説の様に思われるが、天海が将軍・足利義澄の末子であるという説は当時から広く流布していたようだ。もしこれが事実であれば、天海が出自について語らなかった理由も納得できるのである。

 

 しかし残念ながら、天海は少なくとも「義澄の子」ではない。義澄は永正8年(1511年)に亡くなっているからだ。仮に1510年に天海が生まれたとすれば、133歳で亡くなったことになる。これでは「光秀説」以上の長寿になってしまう。このほか、「別の足利氏ご落胤」説も矛盾を抱えていて、どうも「ご落胤説」は成立しないようである。

 

「慈眼大師誕辰考」

 

 『新編風土記巻五十八、高田邑 釈門ニ云、慈眼大師父ヲ船木道光ト云、青龍寺ノ文殊堂ニ祈テ、大師ヲ生リ天文十七年朔旦ノ誕生ニテ、永禄三年龍興寺現在舜幸ヲ師トシ、十三歳ニテ剃髪シ、後天海僧正ト號ス、東照神君御帰依ノ僧ニテ、東叡山ヲ開キ、慈眼大師ト諡ス、』

 

 「慈眼大師誕辰考」が書かれたのは天保10年(1839年)のことであるから、史料としてはあまり参考にならないであろう。むしろ研究書と考えた方が良い。寛永寺住職・甚雄と田中太郎左衛門重好が精査・報告したものだという。

 これは典型的な「船木説」である。確かに船木説には一定の信ぴょう性があるのだが、実は拭い難い矛盾もある。

 

 まず、船木氏は土岐源氏であり、家紋は「丸に桔梗」なのである。足利氏のご落胤説があった天海の家紋は「丸に二引き両」「輪宝紋」である。因みに蘆名氏は三浦氏の支流で家紋は「丸に三引き両」である。一本違うだけだ、などと言ってはいけない。「三引き両」とは三浦氏を意味しているのだ。

 次に蘆名氏の娘を娶ったというが、重臣でもない船木氏に名族・蘆名氏の娘が嫁ぐであろうか。いや、たとえ嫁いだとしても、そもそも船木氏を蘆名一族とは呼ばないであろう。つまり細川忠興を明智一族とは言わないのと同じである。

 

 船木氏は足利一門ではないので「丸に二引き両」の家紋は使用しない。

 たかが家紋と言うなかれ。この時代、家紋は重要であり、自らの出自を表すものである。そもそも天海のような高位な僧侶が「丸に二引き両」を用いたから、「将軍隠し子か。」という噂が広がったのだ。そのような誤解を受けながらも、なお天海は「丸に二引き両」を使い続けた。この家紋の謎を解かなければ、「天海の出自は不明」というほかない。