天海 ①

 

 

【法名は天海】

 

 

「東叡山開山慈眼大師縁起」

 

 『慈眼大師(諱 天海)陸奥国会津郡高田の郷にて生れ給ひ、蘆名修理大夫平盛高の一そくとなむ、又将軍義澄の末の御子といへる人も侍り、海師いますか内、俗氏の事、人のとひしかと、氏姓も行年もわすれていさしらす、一度空門に入ぬれば、なににもあれ、しりてよしなしとて、の給はさりけれは、その實しりかたし、』

 

 僧侶といっても天海ほどの大物になれば伝承に事欠かない。これほど有名で事績の多い人物なのに、不思議なことに出自が不明なのである。

 

 通説によれば「陸奥国会津郡高田の郷の出身で蘆名氏の一族」であるとされる。しかし「東叡山開山慈眼大師縁起」によると①会津の蘆名一族か、②将軍義澄の末子か、という質問者の問いかけに対して「俗事のことは氏姓も行年も忘れてしまった。」といって煙に巻いている。そもそも天海は弟子たちにもその素性を語らなかったというのだ。

 では何故、天海は素性を語らないのであろうか。もし通説の通り、会津の蘆名一族であれば、「そうだ。生まれは会津だ。」といえば良いはずである。別に隠さねばならぬことではない。

 

 「東叡山開山慈眼大師縁起」の問答について、もう少し考えてみよう。質問者は、①会津説と②義澄説を並列で問うている。それに対して「俗事は忘れた。」と答えているのだ。もしも、天海が「どちらも違う。」と答えれば、質問者は「では、いかなる出自か。」と重ねて問うであろう。だから「忘れた。」と答えたのである。忘れたのならば、もはや何も質問はできないであろう。このことは何を意味しているかといえば、回答の拒否であり、要するに「どちらも違う。」という事である。

 では、本当に天海は自らの出自を忘れたのであろうか。無論、そんなはずはない。つまり天海は弟子にも出自を語れない事情が、あったと考えた方が自然である。

 

「東叡開山慈眼大師伝記」

 

 『釈天海前大僧正、勅諡、慈眼大師、世姓三浦氏、爲通之末、蘆名氏之系族、奥域会津郡高田人也。』

 

 「東叡開山慈眼大師伝記」は慶安三年八月、天海滅後七年に東源慧等禅師により撰述された書物である。この時点で天海は「会津の蘆名氏」出身であると断定されている。

 

 また、作家の須藤光暉氏は蘆名氏の娘婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論付けている。私としては美濃源氏である船木氏を、娘婿だからと言って蘆名一族と呼ぶのは、如何なものかとは思う。しかし、天海と船木氏に関する伝承は、多く残っているようである。

 

 一方、「明智光秀説」も有名であるが、恐らく成立しないであろう。光秀は永正13年(1516年)誕生説享禄元年(1528年)誕生説が有力である。天海の没年は寛永20年(1643年)であるから、享禄元年説としても没年は117歳となる。天海が長命と言ってもさすがに長すぎるであろう。

 確かに天海には明智家との関係が疑われているが、光秀と天海を結びつける証拠はない

 

南光坊天海