武蔵遠山氏について ②

 

 

「慶長十八年黒印状」(本光国師日記)

 

 『一、寺領五百石此内弐百五拾石別当分修理免共

  一、衆徒跡猥平僧不可住居同無寺而明屋敷不可抱置事

   付諸法度可随寺務之下知並公用造営之時不動其役者坊領可召

  一、山林竹木門前屋敷如旧規諸役令免許事

  右堅可守此旨者也

  慶長十八年三月十三日(黒印)   武蔵国豊島郡 浅草寺』

 

 天正18年(1590年)、秀吉小田原北条氏を攻めた。「御当家当山御由緒之覚」によると小田原攻めの徳川陣中に天海が現れ、浅草寺祈願所として推奨したと書かれている。その結果として、浅草寺の別当であった忠豪が陣所に呼ばれ、家康から所領の安堵を受けたというのである。

 

 関ヶ原の戦いを目前にした慶長5年(1600年)9月1日、忠豪江戸城に呼び出された。頼朝が平家を追討したときと同様、今度も祈祷を修するよう家康に申し渡されたのである。忠豪は、古式どおり浅草寺で観音密供を修したという。

 9月15日、関ヶ原の戦いで、家康の率いる東軍が見事に勝利をおさめた。これ以後、浅草寺の霊験は一段と天下に響き渡ったという。

 家康時代の浅草寺は、一貫として好待遇であった。徳川幕府の浅草寺に対する政策は旧北条家の家臣であった武蔵遠山氏の係累を重用しているのである。そして忠豪は慶長18年(1613年)に正式に所領安堵の黒印状を受け取ったのであった。

 

 さて俗説では、慶長13年(1608年)に天海駿府城において家康と初対面を果たしたと言われている。家康65歳、天海75歳と言われ、その際、家康は「天海僧正は 、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを。」と述べたという。

 

 しかし、どうもこれは嘘くさい。すでに天海は天正18年に家康に対して浅草寺を祈願所として推薦し、忠豪と引き合わせているのであるから、天海と家康はそれ以前から知り合いであったことが分かるのである。

 

 通説では天海は天正16年(1588年)に上野国長楽寺から武蔵国無量寺北院に移り、その名を随風から天海に改めたと言われている。当時、関東はまだ北条領であるから、この説では家康と天海の接点は見えてこない。一体、関東領有する前に、家康と天海はどこで知り合ったのだろう。また、天海が推薦した忠豪とはどんな結びつきがあるのであろう。

 

 私は、この天海という人物を怪しんでいる。この人物の周りには嘘が多いのだ。そもそも、本当に随風天海になったのであろうか。随風は生真面目に修行を積んだ、生粋の僧侶に見えるのだが、天海にはそれが見えない。彼は鎧を着て関ケ原や大坂の陣に帯同している。鎧は約20Kgあると言われ、これを戦場で身につけるということは「敵と戦う」という意思表示である。どう考えても、ひたすら仏法を学んできた随風には生涯縁のない代物に思える。

 

 恐らく天海随風ではない、別人であろう。念のため言っておくが、天海は明智光秀でもない。では天海とは何者であろうか。少し考えてみよう。

 

 

浅草寺