武蔵遠山氏について ①

 

 

 

「東京地理小誌」

 

 『大永四年、北条氏綱伐テ之ヲ取リ、其臣遠山直景ヲシテ、江戸城ヲ守ラシメ、北條氏ノ世ノ終ルマデ小田原ニ属す』

 

 武蔵遠山氏の始まりは遠山直景である。

 

 直景は美濃国恵那郡の明知城にて遠山景保の子として生まれた。兄弟には景成がいる。明智遠山氏は代々「景□」と名乗るので、私は景成が嫡子と思っている。だが、苗木遠山氏の文書では直景を直系と見なしているらしいので、実態は不明という他ない。あるいは景成には何か問題があり、次男の直景を嫡男としたのかも知れない。

 

 遠山氏は東美濃一帯に勢力を持っていた美濃の名族である。先祖は藤原利仁流加藤氏であり、遠山庄を所領としたことから「遠山氏」を名乗ったという。遠山氏には、宗家に当たる岩村遠山氏の他、苗木遠山氏明智遠山氏、串原遠山氏、飯羽間遠山氏、安木遠山氏、明照遠山氏等がいた。また信濃にも江儀遠山氏もいるが、美濃との関係は良く分かっていない。

 

 直景は奉公衆として京都に上り、足利義材に仕えた。そこで幕府の申次衆となっていた伊勢新九郎(北条早雲)と親しくなり、次第に心酔するようになる。そして大永元年(1521年)頃、明知城を親族に任せ、士卒180人を引連れて関東に下向したという。これが「武蔵遠山氏」である。

 

 直景が出奔した明知城は、景成が継いだ。しかし士卒を引き抜かれた痛手は大きかったのであろう。土岐明智家明智光安を養子に迎えたようである。これが遠山景行である。(恵那叢書)

 

 大永4年(1524年)に北条氏綱は江戸城を攻略し、直景を城代とした。天文2年(1533年)直景の死去に伴い、嫡男・綱景が江戸城代を引き継いだ。こうして遠山氏は北条家で重きをなし、松田氏、大道寺氏と並び三家三家老と称された。

 

 永禄7年(1564年)綱景の娘婿であり、同じ江戸城代を務めていた太田康資が離反する。面目を失った綱景は子の隼人佐と娘婿の舎人経忠と共に江戸川を渡河して里見氏と戦うが、父子共々討死してしまう。(第二次国府合戦)このため家督は出家していた三男政景が継いだのである。

 

 政景もまた江戸城代を勤め、北條家の外交にも関係していたようである。その後、江戸城は一族の北条氏秀が城代となり、政景は下総に移った。

 

 さて、天文8年(1539年)、北条氏綱は焼失していた浅草寺の堂塔を再建した。この時、住職を勤めていたのが武蔵遠山氏の開祖となった直景の次男である忠豪上人であった。忠豪上人は長い浅草寺の歴史の中でも「中興第一世」と仰がれた存在である。

 忠豪上人は、浅草寺内の僧侶のうち学僧を衆徒、祈祷僧を寺僧として区分した。そして衆徒十二ヶ寺、寺僧二十一ヶ寺を制定。それまで坊中にあった百余の支院を六十余に整理し、浅草寺運営の基盤を固めたのである。(浅草寺史談抄) 

 こうして関東に名族として広がった武蔵遠山氏であったが、北条氏の滅亡により没落したのであった。