明智秀満 (127)
「兼見卿記」
『六月十五日、壬申、慥申来云、向州於醍醐之邊討捕、一揆其頸於村井清三、三七郎殿へ令持参云々、(中略)。
十六日、癸酉、向州頸、筒体、於本能寺曝之云々。』
「兼見卿記」は同時代に記された一級史料である。当時に流布していた「噂」や自らの生活を書き留めたものである。
「6月15日、確かな話として、光秀は醍醐の辺りで一揆に討ち取られ、その首は村井清三によって信孝のもとに届けられた。
16日、光秀の首と胴体は本能寺において晒された。」
本能寺の変で落命した村井貞勝の側近・村井清三のもとに「光秀の首」が届けられた。清三は状況証拠から「光秀本人のもの」と考えたのである。
「首はどこだ。光秀の首はどこだ。」と半狂乱になって探していた秀吉のもとに、「三つめ」の光秀の首が届けられた。いや、正確には総大将の信孝と副将の秀吉のもとに届けられたのである。
「遺骸を見つけた者によると切腹した首なし胴の側に桔梗紋の入った立派な鎧が置いてあったそうです。そこで辺りを調べると竹藪の中に毛氈に包まれた首が埋められていたそうです。」と清三は発見の経緯を語った。
「では早速、御確認願います。」というと清三は首桶を開いた。
取り上げた首は既に腐敗が進んでいて、異臭を放ったのである。特に顔は数か所刀傷があり、とても人相を判別できる状態ではなかった。居並ぶ諸将はしばらく訝しげに眺めていたのである。
「おお、これは桔梗の紋、光秀めの鎧に相違ない。それに顎の輪郭には見覚えがある。村井殿これは大手柄であるな。」と官兵衛が感嘆の声を上げた。
すると秀吉が、「オレは、光秀をよく知っている。うむ、これは本物だ。間違いない。」と言い出した。その様子を見て諸将も口々に「これは光秀だ。」と言い出す。ついには総大将の信孝までが「本物」であると認めたのである。
正直言って、諸将は光秀の首を探すのに疲れていたのである。無論、これからの政治状況を考えれば光秀の首は貴重である。しかし、既に明智家は滅んだのだ。今さら、首ひとつに右往左往することに嫌気がさしていた。
その様子を長秀は苦々しく思っていた。
(どいつもこいつも、“敵を討った”という名目が欲しいばかりで、本気で光秀を憎んではいないのだ。まるで用意したかのように鎧が置かれ、毛氈に包まれた首があり、顔が傷つけられている。これを誰も怪しいとは思わんのか。)と長秀は憤る。
長秀は、「光秀は生きている。」と確信していた。だが、これを偽物という証拠がないのだ。長秀は織田家中では最も光秀と付き合いが長い。奴がこんな分かりやすい死に方をするはずがないのだ。
(これは影武者だ。)と思うのだが、皆を納得させるだけの証拠がない。
(上様は私のようなものを友と呼んでくれた。それなのに…。)
長秀は自分の無力さが悔しくてならなかった。
小栗栖の月