明智秀満 (114)

 

 

「家忠日記」

 

 『六月五日、辛卯、城へ出仕候、早々帰候て、陣用意候へ由被仰候、伊勢おはいりより家康へ御使越候、一味之儀候て深溝へかへり候。

 六日、壬申、雨降、日待候、来八日ニ、東三川衆、岡(崎)へ御より、爰元衆は左右次第之由、酒左(酒井忠次)より申来候、

 九日、乙未、西陣少廷候由申来候。』

 

「武徳編年集成」

 

 『六月七日、神君ハ明智ヲ誅伐アルヘシトテ、御分国参遠駿ノ軍兵ヲ催シ玉フ

 六月十日、神君ハ當十二日上方ヘ御発向ノ由、今日令ヲ下シ玉フ、然シトモ十二日ハ遅滞シ玉フ、』

 

 家康一行は宇治田原城で一泊すると3日には近江国甲賀の多羅尾光俊の館に辿り着く。

 「梅雪殿はどうやら大和の方に向かわれたご様子です。奈良に伝手でもあるのかも知れませぬ。」と忠次が報告すると、

 「うむ、あの道は却って危険であろう。ご無事であればよいのだが。」と家康は表情を曇らせる。

 「少将様があれ程忠告したのですから、致し方ございませんよ。」とぼたん鍋の猪肉を頬張りながら、秀一は言った。

 それを見ていた忠勝は「運のいい奴はこうして生き残るのか。」と嘆息したのである。

 

 多羅尾邸を出ると、それまで姿を隠していた半蔵配下の伊賀者、甲賀者が一行の護衛に就いた。暢気な秀一はそれを光俊が手配してくれたと思いこみ、その配慮に一人で感激していた。

 

 6月4日には信楽から神山、桜峠を越え、伊賀国柘植に入った。天正伊賀の乱では上柘植の福地宗隆が寝返り、織田家侵攻の足掛かりを作っている。乱が終焉してからまだ一年もたっていないのだ。

 

 「ひどい有様だな。」と忠勝は渋面を作った。

 「はい、3万人が死んだそうです。女子供も見境がありません。伊賀者が織田家を恨むのはやむを得ないのです。」と半蔵は答えた。

 「復興どころではない。日々の暮らしも儘ならぬ状態だ。伊賀を散々荒らし回った挙句、今日まで三介は何をしてきたのだ。」と忠勝は吐き捨てる。

 「織田家はとうに天から見放されていたのです。上様は余りに罪なき人を殺しすぎた。光秀の気持ちも分らぬでもありません。」と半蔵は答えた。

 

 家康一行は伊賀を抜けて伊勢に辿り着いた。商人の角屋七郎次郎秀持の船に乗り三河国大浜に上陸、無事に岡崎城に着いたのである。

 6月7日、家康は三河、遠江、駿河の三国に光秀追討の命令を出し、諸兵を集めた。12日には上方に向かって出陣すると言ったが、何故か遅延したのである。

 

 「本当に上方に行って明智と戦うのか。」と忠勝が問うと、

 「まぁ長谷川殿もいるし、恐らく殿は口だけだろうよ。この機会に甲斐・信濃を陥れるつもりだ。既に穴山領に手を入れ、百助(本多信俊)を河尻に遣わした。全く狸親父よ。」と康政は言うと呵呵と笑った。

 

長谷川秀一