明智秀満 (113)

 

 

「蒲生記」

 

 『明智日向守光秀ハ、急江刕安土馳下、城ヲ請取ヲ守シカハ、当国住人等、我モ我モト降参メ、光秀カ麾下ニ不屬者一人モナシ、爰ニ蒲生左兵衛太夫賢秀、子息忠三郎氏郷ハ、信長公ノ御恩何ノ世ニカハ報シ奉ヘキ、只一戦シテ腹掻切御供センニハ不如トテ、日野城エ楯籠リ城ヲ拵ヘ、人数ヲ被催ニ』

 

 京都を押さえた光秀は、同心した元若狭国守護・武田元明、京極高次を近江に派遣し、長秀の居城・佐和山城を押さえた。

 しかし、瀬田城の山岡景隆は光秀の誘いを拒否したうえ、瀬田大橋を焼落として明智軍の進路を妨害したのである。さらに景隆は安土城に向かう秀満舟戦をして抵抗した。瀬田城を焼払った後も、甲賀の山中に逃れて、光秀軍の行動を逐一、秀吉に通報するなど徹底抗戦したという。

 

 蒲生賢秀は留守居として安土城二ノ丸を守備していた。本能寺の変を知ると直ちに嫡男・氏郷日野城から呼び寄せ、信長の御台所(帰蝶か)達を日野城に避難させている。

 賢秀は女房衆から城内から宝物を持ちだし、安土城を焼払うよう進言されたが、「神仏の罰が当たる」とこれを拒否したという。

 

 6月5日、瀬田大橋の修繕を終えた光秀は安土城に入った。光秀はまず、城内に貯蔵されていた金銀財宝を手に入れた。これらは部下や同心した国衆、朝廷工作などに使用するためのものである。

 

 「近江衆の大半は同心したが、瀬田の山岡はこれを拒絶した。剰え、大橋を焼いて反抗した。オレは大軍を率いている勝家を最大の脅威と考えている。そのためには一日も早く近江を押さえたかったのだ。左馬助、安土城はその方に任せる故、北と東の備えを頼みたい。」と光秀は命じた。こうして秀満光秀と別行動をとることになったのである。

 

 秀満は安土城に入った。ルイスフロイスの「日本史」によると、既に落雷により本丸は失われていたようである。

 「何やら、場違いなような気がしますな。」と人気がなくなった御殿で、荒木氏綱は言った。氏綱は秀満の与力で、副将のような存在である。秀満は2千余の兵力で入城したが、この城は大きすぎるのである。

 「ああ、御殿の方には兵は入れさせるな。あくまでもオレ達は守備兵だ。御殿に入ると思い違いをする者も現われかねない。」と秀満は言う。

 明智家の現在の状況は曖昧である。近江を始め畿内の国衆は味方に付くものも多いが、細川家・筒井家の去就がまだはっきりしない。順慶の下には大和検地で親しくなった伝五が派遣されるようだ。細川家には長閑斎が説得に行くらしい。明智家の縁者であるこの二家が味方に付かなくては、話にならないだろう。やはりそうなると摂津の池田は難しいかもしれない。

 

 行く末をことさら心配していても始まらない。秀満は今、自分の出来ることをする以外にないのだ。まずは東国北陸の情勢を探ることだ。

 

 

 瀬田の唐橋