明智秀満 (112)

 

 

「浅野家文書」

 

 『右之陣取を筑前不用、後巻而巳堅取巻申候へは城主腹をきり可申と懇望申候へ共、免不申候處、六月二日ニ、於京都、上様御腹めされ候由、同四日ニ注進御座候、筑前驚入候といへども御腹之御供をこそ不仕候共。於此陣者、任本意、城之事は不及申、毛利を切崩刎首申候者、明智退陣之儀は安御御座候と存切、六日迄至逗留、終城主事者不及申、悉刎首候事。』

 

 6月3日の夜秀吉官兵衛らが話し合っているところに早馬が来た。

 「火急な書状にて御人払いをお願いします。」と使者は言うので、全員が退席しようとすると、「官兵衛は残れ。」と秀吉は言った。使者もまた書状を渡すと、その場を退席したのである。

 

 秀吉が書状を読むと、突然ガタガタと震え始め、床几から落ちた。驚いた官兵衛が抱き起すと、秀吉はその書状を手渡し、「読め。」と言う。

 そこには、光秀の謀叛と信長・信忠父子の自害が簡潔に記してあった。

 「終わりだ、何もかも終わりだ。もう援軍は来ねぇ。毛利に知られたら、皆殺しだ。」と秀吉は腰が抜けたようになった。

 

 (これは驚いた。しかしこれからどうなるだろう。)と官兵衛の頭脳は回転し始める。

 まず明智軍であるが、本隊が1万5千人、細川・筒井で1万人であろう。さらに畿内からは3千人ほど集められるだろうから、都合3万人弱。摂津の池田がどちらに転ぶかは分からないが、長秀ら四国勢1万5千人はこちらに付くであろう。だが待てよ、信澄はまだ分からない。

 当方は2万人、宇喜多は当てにならないが、うまく摂津・大坂勢と合流できれば3万人以上は集められる。すると鍵を握るのは摂津の池田だな。

 

 あとは「時」だ。織田家の諸将が一斉に明智討伐軍を起こすであろう。勝家は遠い上に情報に疎いから20日はかかる。一益新任地で周囲が敵ばかりなので到底、間に合わない。家康はまだ畿内でウロウロしているであろう。

 我等は毛利との講和が間に合えば15日で戻れる。いや、大急ぎすれば12日か。

 

 官兵衛は腰を抜かしている秀吉に笑顔で囁く。

 「殿、ここはひとつ天下を取りましょうぞ。」

 「えっ。」と言ったまま、秀吉は官兵衛の顔を見詰めた。

 

 「なるほど、池田を味方につけた方が勝ちという訳か。毛利はどうする。」と秀吉が言う。

 「毛利には情報が洩れぬよう、あらゆる街道を封鎖しましょう。これで交渉の全権は我らが握りましたので講和も思うが儘です。後は時です。時をかけてはなりません。」と官兵衛が言った。

 

 秀吉は落ち着きを取り戻すと、何度か官兵衛の言葉を反芻した。

 「よおし、分かった。毛利と講和を結び、一日も早く京都に向かうぞ。」と秀吉は卓を叩いた。

 (相変わらず分かりやすいお方だ。)と官兵衛は思わず笑みがこぼれた。

 

 

月岡芳年画「高松水攻め」/岡山市立中央図書館蔵