明智秀満 (111)

 

 

 

 

「黒田家譜」

 

 『六月二日、惟任日向守光秀反逆して、其寺を囲みて弑しけり、扨も毛利家にて清水を救わんと謀れども浩水を隔てし上、猛勢にて囲み防きけるは、助くに術なく、宗治に降参せよと下知し、秀吉には孝高に就て、和議を申入りけれども承引なかりしに、同三日、宗治、某一人切腹せは、御本意を遂らるへし城に籠りし者は、助命たまえと乞けれ秀吉其望に任せへしと答られしに、其夜弑逆の変達しけり、』

 

 光秀・一益に並び、秀吉は独自の情報網を構築していた。特に安土・京都から離れているだけに、信長の動向は常に把握していたのである。

 

 「官兵衛、大丈夫か、毛利は攻めて来ぬか。」と秀吉は忙しなく問う。

 (同じことを何度聞くのだ。)と些かうんざりしながら「毛利は本音では織田家との講和を望んでおります。和平交を続けているうちは、攻めては来ないでしょう。」と官兵衛は告げた。

 羽柴勢は2万人、宇喜多勢が1万人。このうち堤防の警備に1万人余りを割いている。つまり秀吉が直接指揮できるのは1万余り。一方、小早川・吉川勢は3万人、毛利本隊が1万人。突然、野戦を仕掛けられたら勝ち目がない。

 「上様は援軍を寄こすと言ってはいるが、オレは気が気じゃない。その前に毛利が仕掛けてきたら、お終いだ。」と秀吉は一日千秋の思いで援軍を待っているのである。

 「本当に戦う気があれば、堤防を壊すなど造作もないことです。1万で仕掛け、残りの兵で堤防を壊せば水は退く。しかし、そうなると織田家とは決戦をするしかない。だから何もしない。つまり毛利家は交渉を望んでいるという事です。」と言った。官兵衛は毛利の意向を看破しているのだ。

 

 事実、毛利方の外交僧の安国寺恵瓊が既に官兵衛のもとに来ている。

 恵瓊は「五国割譲と城兵の生命保全」を提案してきた。具体的には「備中・備後・美作・伯耆・出雲」を織田家に割譲し、高松城の将兵の生命は助ける、との内容である。

 

 「先日、奉行の堀がやって来たろう。オレは上様から勝手な交渉はするな、と厳しく言いつけられているのだ。いい加減な交渉をすれば首が跳ぶ。それに恐らく、この案では上様のご承認は受けられまい。」と秀吉は無念そうに言った。

 「そんなこと、毛利方は知りません。ともかく交渉を長引かせ、時を稼ぐべきです。」と官兵衛は言う。直に援軍が来る、それまでの辛抱である。

 秀吉はあらためて「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、今度は毛利方が難色を示し、交渉はいったん物別れに終わったのである。

 

 ところが、この話を聞いた清水宗治は「自分の命で毛利家と将兵が助かるなら、武士の本望である。」と言い出した。

 「助けられるものを助けず、板挟みにして詰め腹を切らせる。毛利もやる事が汚いな。」と官兵衛は思ったが、切腹を条件にしたのはこちら側である。

 「おい、官兵衛、どうする。毛利は腹を切らせると言っているぞ。何と答えればいい。」と相変わらず秀吉はうるさい。

 「天晴なお覚悟、まさに武士の鑑である。将兵の命はこの筑前が保障するから安心なされ、とでも言っておきましょう。」という。

 「それで和平の件は、と聞かれたら、どうするのだ。」

 「国境をどうするか、ゆるりとお決めになればよいかと存じます。」

 「首が跳ぶのはオレだから、お前は暢気なものだな。」と秀吉は明らかに不満気な顔をした。

 しかしその夜、二人が想像もできなかった驚天動地の知らせが届いたのである。

 

清水宗治