明智秀満 (110)

 

 

「多聞院日記」

 

 『六月五日、一、於大坂七兵衛ヲ生害云々、向州ノ聟一段逸物也、三七殿、丹羽五郎左衛門鉢屋らとノ沙汰歟、但し雑説歟、』

 

「丹羽家譜伝」

 

 『六月二日、公、逆黨、織田七兵衛信澄ヲ大坂に誅ス、于時惟任日向守光秀逆心ヲ作シ、織田家ヲ洛ノ本能寺ニ弑ス、変報至ル、公、大坂ニ在、コレヲ聞テ大ニ駭キ、急ヲ信孝ニ告、直ニ馬ヲ馳テ洛ニ向フ、森口ニ至テ、織田家既ニ傷害スト聞テ、憤慨悲嘆シテ大坂ニ帰ル、時ニ織田信澄ハ光秀カ婿タルヲ以志ヲ通シ、信孝ヲ殺ント図ル、信澄与力ノ士、朽木河内守、吉武治右衛門、潜ニ公ニ密計ヲ告、同五日辰刻ハカリ、公、信澄ヲ千貫櫓ニ囲ミ攻、信澄自殺ス』

 

 織田家の重臣である丹羽長秀も当然にして情報網を持っている。京都の異変は直ちに大坂にいる長秀に伝えられた。長秀はすぐに京都に向かって早馬を放ち、信孝に光秀謀叛を伝えた。

 長秀と信孝は急遽、馬廻衆を集めると僅かな兵で京都に向かったのである。しかし、守口の辺りまで来ると、明智が大軍で京都を抑えていること、既に信長、信忠親子が自害したことを知り、止むを得ず大坂に引き上げた。

 

 二人は悲しみと憤りで、帰路に就いたのである。

 「これが事実であるとすれば、我らが主君の恨みを晴らさなければなりません。織田家の後継者は侍従様の他はおりません。お腹をくくりなさいませ。」と長秀は言う。

 「うむ、主殺しの光秀は長くは持たぬであろう。当面、織田家を継げるのは私か三介殿しかおらん。織田家が割れぬよう、心して掛からねばならない。」と言った。

 

 大坂に戻ると既に本能寺での出来事が広く伝わっていた。寄せ集めの四国遠征軍は脱走者が多く出てしまい、軍隊の躰を失っていたのであった。

 「我が軍には明智の家老・三沢庄兵衛が集めた丹波・上山城の徴募兵が多く含まれている。恐らく扇動されたのであろう。」と長秀が言うと、

 「こんな所にも光秀の手が伸びていたか。」と信孝は悔しがった。すると、「よもや、七兵衛が裏切っていることはあるまいか。」と言い出した。

 長秀は“あっ”と気が付くと、周到な光秀ならやりかねないと思った。もし迂闊に兵を動かすと、背後から娘婿の信澄に討たれる可能性がある。

 「調べてみましょう。」と長秀は言った。

 

 長秀は旧知の朽木元綱に連絡を取ったのである。元綱はその昔、朝倉攻めの際に織田家に帰順し、現在は信澄の配下となっていた。元綱は謀叛の話を直接聞いた事はないが、光秀と信澄が共謀しているという噂は予てよりあったと伝えた。また、吉武治右衛門は、信澄が密かに信孝の命を狙っているのではないか、との疑惑を告げたのである。

 

 6月5日、長秀と信孝は大坂城千貫櫓にいた信澄を襲撃した。驚いた信澄は必死に防戦したが、長秀家臣・上田重安によって討ち取られたのであった。かくして信澄は身に覚えのない謀反人の汚名を着せられたまま、信孝の命で堺の町外れに首を晒されたのである。

 

 

 

織田信澄「英名百雄伝」(国文学研究資料館所蔵