明智秀満 (109)

 

 

 血相を変えた家康が、古寺の縁側から境内に飛び降りると、

 「これから京に上るぞ、上様に一大事だ。今すぐ本能寺へお助けに行く。」と叫んだ。

 それを忠次が押し止める。

 「お待ちくだされ、惟任は万余の兵、我らが駆け付けても焼け石に水でございます。」

 「然らば何とする、我らはここで指を咥えて見ておれとでもいうか。」と忠勝が凄むと、

 「えーい、ならばいっそこの場で上様の追い腹を…。」と家康が片肌脱ぐのである。

 すると数正が、「お待ちくだされ。」と罷り出て、片膝をついて申すには、「上様は、天に選ばれしお方。簡単に惟任如きの手に掛かるとは思われません。ここは急ぎ三河に戻り、惟任追討の軍を起こすべきと考えます。」と言った。

 康政は大きく頷くと、「それは誠にその通りでございます。上様は恐らく洛外に逃れ、今や遅しと援軍をお待ちかと存じますので、我らは三河で兵を挙げましょう。なあ、皆の衆。」と言うと、徳川の諸将は「おおぉ。」と応じた。

 

 秀一はこの主従の掛け合いに感動していたが、梅雪は、この猿芝居を馬鹿馬鹿しいと感じていた。

 「あの狸が追い腹など斬るものか。」と思ったのである。

 

 穴山梅雪は信長から招待を受けたので、のこのことこんな所まで来たが、大層後悔していた。徳川一行は何か隠し事をしていて、常に自分は除け者である。思えばこのような大げさな旅は不自然で、織田家と徳川家の確執に巻き込まれたと感じていたのだ。

 「このまま、家康と山の中に入ったら何をされるか分からない。」と思い、既に逃げ出す算段をしていた。随臣は5人ほど、どこかで家康と別れ、暫く身を隠そうか、と考えていたのだ。

 

 半蔵は、そんな梅雪を冷たい目で監視している。そして「こいつは早く始末した方が、いいな。」と判断した。

 

 感激した秀一は家康とともに三河に向かうと言い出した。

 「私も挙兵に加わり、上様をお助けしたい。」と言うのだ。

 「どうする。」と忠次が問うと、

 「いいではないか、大切な生き証人として連れていこう。」と忠勝が言う。

 

 家康一行は甲賀の多羅尾屋敷を目指した。実は甲賀衆とは最初から話はついていたのだが、秀一が“多羅尾家と少しだけ誼がある”というので、ここは秀一の顔を立てることにした。

 道中、遅れ気味の梅雪らを家康が心配する。

 「ここは山道で落武者狩りが出ぬとは限らん。穴山殿を急がせろ。」と言うと、

 「はい、そのように申しておるのですが、何かお考えがあるのでしょう。」と忠次が答えた。

 この会話を秀一にわざわざ聞かせているのだ。

 

 梅雪は十分距離を取ると脇道に入った。

 「あんな奴らと付き合っていたら、命が幾つあっても足らんわい。これから奈良に向かい、知己の寺にでも身を隠そう。」と随臣に語った。

 しばらく山中を進むと周囲に人の気配を感じた。

 「いかん、落武者狩りか。急げ。」と言ったが、すでに遅かった。

 落武者狩りに扮した伊賀者は梅雪らを難なく皆殺しにしたのである。

 

 無事に多羅尾邸に着いた家康は半蔵から報告を受けた。

 「ご苦労。」と一言いうと、家康は笑顔に戻る。

 (これで甲斐に足掛かりができたわい。)と喜んだ。

 

穴山梅雪