明智秀満 (107)

 

 

 

 既に陽は西に傾き始め、焦土と化した本能寺跡に続々と明智軍が集結してくる。

 「いくら探しても、信長の遺体は見つかりません。」と無念そうに秀満が報告すると、鳥羽から駆け付けた光秀が、「生きて京から逃れたという事はないか。」と懸念を示した。

 すると利三が進み出て、「私は血塗れの信長が燃え盛る御殿の奥へ入っていくのを見ました。その後、激しい火柱が上がったので、万に一つも助かることはありません。」と当時の状況を説明した。

 「そうか。」と光秀は肩を落とした。

 (恐らくこれで1万人程の援軍を失ったことだろう。)と秀満は思った。

 例えば摂津の池田恒興は中川・高山を与力とし、畿内軍に組み込まれていた。恒興は利に聡く、褒美次第では明智方に転ぶかも知れなかったのだ。しかし、少しでも信長生存の可能性があれば、慎重な恒興は中立を決め込み、当分状況を見るであろう。

 

 庄兵衛が慌てた様子でやって来た。

 「次右衛門が撃たれていた。太ももに当たったようだ。意識はあるが足に玉が残っている。」と言った。

 「それはいかん。鉛は毒だ。直ぐに知恩院に行って摘出するように手配してくれ。」と光秀は命じた。

 「承知しました。」と庄兵衛は、また走り去った。

 (次右衛門は当分、動けまい。これも痛いな。)と秀満は思う。

 

「林鐘談」

 

 『徳川殿には、信長の御勧を以、京より堺迄御一覧有へしと、五月廿一日安土を御立、京へ御入、夫より堺へ御越、当所御覧の上は、京迄先御帰在て、御本国参刕へ御皈在へし、此通懸より大和の内奈良辺をも爰彼所御見物可被遊、本多平八郎忠勝には、御先へ京都に参り、御用を相辨すへきよしを被仰付につき、六月二日の暁天に堺を御先へ発足し、既に飯森山の麓迄罷越の處に、向より鞍馬に鞭打て馳来る者、遥かに先より扇を披きて指招く、我を見掛て相招にや、誰やらんと本多近寄見れば京の呉服所四郎次郎也』

 

 6月1日夜、家康主従は緊張感に包まれていた。

 「今晩が一番危ない。」というのが、昨日の評定の結論であった。主従はいつでも逃げ出せるように身支度をして、息を殺して“その時”を待っていた。半里先に隠れ家を用意し、ことあれば、すぐに大和に抜けられるように手配をしていたのだ。やがて暁七つの寅の刻(午前4時頃)になった。

 

 「おかしい。そんなはずはない。」と突然、忠勝が騒ぎ出した。

 「何がおかしい、何事もなくて良かったではないか。」と忠次が言うと、

 「いや、何かおかしい、殿、オレを京まで行かせてくれ。」と言い出した。

 「馬鹿者、逸れても置いていくぞ。いいのか。」と数正が言うと、 

 「おお、構わん。ここで愚図愚図していたら取り返しがつかんことになる。」

 「殿、私からもお願いいたします。平八郎は、何か感じているのだと思います。行かせてあげてください。」と康政まで言い出した。

 「うむ、分かった。行って来い。その代わり深追いするな、何かあればすぐに戻れ。」と家康が念を押した。

 「御意。」と叫ぶと忠勝は宿を抜け、すぐに馬に飛び乗った。

 空はまだ暗い、漸く東の山が黄金に染まり始めている。忠勝を乗せた馬は矢のように京都に向かった。