明智秀満 (98)

 

 

「信長公記」

 

 『明智日向西国出陣の事

 五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本をうち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。一宿参籠致し、惟任日向守心持ち御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申し侯。廿八日、西坊にて連歌興行、

 発句  惟任日向守

 ときは今 あめか下知る 五月哉   光秀

 水上まさる 庭のまつ山         西坊

 花落る 流れの末を 関とめて    紹巴

 かように、百韵仕り、神前に籠おく、

 五月廿八日、丹波国 亀山へ帰城。』

 

 家康のもとに数正半蔵がやって来た。

 「お耳に入れておきたいことがございます。」と数正は言うと半蔵を呼び寄せた。

 「手の者が申しますには、大坂の信澄が戦支度しており、四国ではなくに討って出るのでは、との噂があるようです。信澄は光秀の娘婿であり、此度の戦は両者が連携しているとの話でございます。」と半蔵は言う。

 「明智の手の者が動いているので、我らはてっきり明智の仕業と思いました。ところが、明智の者は坂本に帰ってからは、全く見あたりません。我らを油断させておいて、四国征伐軍、それも北の信澄勢が動くという事はありそうな話です。」と数正は言った。

 家康は「うぅむ。」と唸ると目を瞑った。

 やがて、「いや、むしろこれが陽動であろう。」と喝破した。

 「これ程の難事を担当するには信澄では経験が足りない。上様の信頼は日向守の方がはるかに高い。これは我らの意識を北に向かわせるための工作である。半蔵は噂の出所を精査せよ。そして伊賀甲賀の者に襲撃が近い事を知らせよ。伯耆は諸将を集め、いざという時に備えよ。危険と判断したら早めに動く。大和から甲賀まで逃げるので退路を確保せよ。」と一気に話した。

 

 二人が退席すると家康は考えた。

 家康は心の中で、これが何かの思い違いであって欲しい、と願っていたのだ。

 「本気か、信長。本気でこの徳川と戦う気か。」と呟くと、やがて顔を真っ赤にして、「おのれ、ただでは済まさん。」と吐き捨てた。

 

 有名な「神君伊賀越え」では、家康が命辛々、伊賀を越えたというのが伝説になっている。しかし、伊賀の人々にとって、天正伊賀の乱で多くの命を奪った織田家は確かに宿敵であるが、徳川家には何の恨みもない。それどころか、伊賀国を逃げ落ちた伊賀者は織田領内で行き場を失い、徳川領に逃げ込んでいる。

 特に先祖の誼で半蔵を頼ったものが多かった。半蔵は彼らを鉄砲足軽として採用し、生きる術を与えたのである。彼らは後に伊賀組・甲賀組と呼ばれ、江戸城の警護を担当することになる。伊賀者が恩人ともいえる家康一行を襲う訳がないのである。

 

 

徳川家康