明智秀満 (91)

 

 

 

「信長公記」

 

 『五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿、大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せ付けられ、京都・堺にて珍物調へ、生便敷結構にて、十五日より十七日まで、三日の御事なり。』

 

 安土城では庄兵衛と側用人・山岸光重らが中心になり、家康一行のお持成しの準備が行われていた。秀満次右衛門はその手伝いである。

 「うむ、弥平次も使えるようになったな。」と庄兵衛が偉そうに言う。

 「以前、丹波で七五三の膳を振舞ってな、あれが大層、勉強になった。」と秀満は自慢げに言う。

 「弥平次兄さん、上様が初めて明智邸に来られたころは庭掃除警固でしたな。」と次右衛門も冷やかす。

 「オレにはもともと才能があるのだ。そこが伝五との違いよ。」と言うと一同は大笑いになった。伝五は今度も警護隊である。

 

 献立は三日分、光秀自ら吟味し、京都からも取り寄せた。光秀らしい、一部の隙も無い段取りである。「信長公記」では、その出来栄えを「生便敷結構(おびただしくけっこう)」と評している。また、光秀が接待したのは15日から17日までとされていて、最初から3日間の事であったと分かる。

 つまり「信長公記」によると「光秀の接待に不備があり信長から折檻を受けた。」とか、「接待役を突然、免ぜられ、中国出陣を命じられた。」というのは全て嘘である、という事だ。光秀は最初から3日間の担当であり、その出来栄えは「おびただしく結構」だったのである。

 

 光秀は突然、家康の宿舎を訪ね面談を求めた。家康らは何事かと、色めき立ったが、光秀が面談を求めたのは菅沼定政であった。秀満と警固役の伝五が同行している。

 「甚だ失礼と存じますが、藤蔵とは、どのようなご関係でありますか。」と忠次が尋ねると、

 「定政殿は私にとってまた従兄弟、妻、煕子にとっては従兄弟でございます。」と言うと、一同は「え~っ。」と奇声を上げた。

 「藤蔵、本当か?」と家康は尋ねる。

 「あぁ、はい、ただ私は幼い頃、明智を追われた人間ですので、今は菅沼の…。」

 「本当かどうかを尋ねておるのだ。」と家康は怒気を込めて言う。

 「はい、私の実父は明智定明と申します。惟任様の明智家とは昔、所領を巡り争いがあり、祖父が勘当し、放逐いたしました。その後、我が父は長良川の戦いで戦死しまして、現在は叔父が妻木家として存続しております。私と母は命辛々、三河に落ち延び、菅沼の一族に救われました。」と言った。

 

 光秀は、秀満に持たせていた箱を開けさせた。そこには一柄の鑓が入っていた。

 「これは他家に取ってはただの鑓ではございますが、我が土岐明智一族においては家宝にございます。その名を「血吸の鑓」と申します。

 遠い昔、定明公がわが家にお預けになり、いつの日か定政殿が一家を構えた時にお返しする約束でした。今がその時にございます。」と光秀は言う。

 

 鑓を受け取った定政は、深々と礼をすると、「今日まで、私は母を追った明智家を恨み、日向守様ともお目にかからぬようしておりました。今日のお話を聞き、心が洗われました。謹んでお受け取りいたします。」と言うと涙したのであった。光秀はこの他、土岐明智家の宝物として備前兼光作の剣、土岐氏の烏絲綴織の甲冑、佐々木高綱の馬の轡などを定政に贈ったという。

 

  「血吸銘の槍」(沼田市資料館蔵)