明智秀満 (83)

 

 

 

「信長公記」

 

 『大天龍舟橋御通りなされ、小天龍乗り越させられ、浜松に至りて御泊。ここにて、御小姓衆・御馬廻、とごとく御暇下され、思い思い、本坂越え、今切越えにて、御先へ帰陣なり。御弓衆・御鉄砲衆ばかり相残り、御伴なり。

 去る年、西尾小左衛門 仰せ付けられ、黄金五十枚にて御兵粮八千余俵調え置かれ侯。これは、かようの時節御用に立てらるべきため侯。併しながら、この上は要らざるの旨、御諚侯て、家康卿御家臣衆へ御支配候て下され、各々かたじけなきの趣、御礼にて侯なり。』

 

 信長浜松城で目を覚ました。家康の過剰ともいえる接待にも、余り付き合ってはいない。そもそも深酒は健康によくないという。

 

 あれは天正8年(1580年)の秋であった。安土城内で、これまで経験したことのない激しい頭痛に見舞われた。立っていることも儘ならず、信長は膝をついた。周囲が大騒ぎしていることは分かったが、どうにも動くことが出来なかったのである。

 

 信長が気づくと、傍らに曲直瀬道三が座っていた。

 「お気づきでございますか。」とニコニコとして言った。

 「うむ、何があった。」と尋ねると、

 「いわゆる、卒中でございます。」と道三が言う。

 「あたったのか。」と信長が言うと、道三は頷き、

 「ああ、お話もしっかりしておられますなぁ。城内で発見が早く、症状が軽かったのが幸いで、恐らくは大きな障害は残らないでしょう。ただお見受けしたところお顔の左に軽い麻痺が見られます。」と道三は言う。

 

 道三は少なくとも1ケ月以上の安静が必要である、と言った。そして今後は深酒夜更かし急激な運動も控えるように言ったのである。

 療養中、信長は「卒中」について調べた。医師はどうせ良い事しか言わない。自分で調べなくては気が済まなかったのである。

 「次ぎにアレが来たら、オレはお終いということか。」と信長は思った。

信長は自分で「余命3年」と診断した。「まさに人間五十年だわい。もし、それ以上生きられたら幸運と思おう。」と考えた。

 

 信長の父・信秀は42歳で、突然死んだ。何もかも遣り掛けで、中途半端で、いきなり死んだのだ。当時、信長は何の準備も出来ていなかった。

 「思えばひどい目にあったものだ。」と信長は思う。

 「しかし、オレは親父とは違うのだ。信忠には同じ思いはさせない。50歳までにきっちりと仕事を終えて見せる。」

 

 家康の人懐っこい丸い顔を思い出す。皆あれに騙されるのだ。あの男は正室と嫡男を自害させても平然としている男だ。そんな底の知れない恐ろしさに気づいているものはほとんどいない。

 残りの人生を考えると、どうにも気が急く。

 「やるか…。」と信長は呟いた。

 

 

浜松城