明智秀満 (77)

 

 

「信長公記」

 

 

 『恵林寺 御成敗の事

 さる程に、今度、恵林寺において、佐々木次郎隠しおくにつきて、その過怠として、三位中将信忠卿より仰せつけられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、織田九郎次郎、長谷川與次、関十郎右衛門、赤座七郎右衛門、以上。右奉行衆罷り越し、寺中老若を残らず、山門へ呼び上せ、廊門より山門へ籠草を積ませ、火をつけられ候。初めは黒煙立て、見えわかず。次第次第に煙納まり、焼き上り、人の形見ゆるところに、快川長老は、ちとも騒がず、座に直りたる儘、動かず。其の外、老若、児、若衆、踊り上り飛び上り、互ひに抱き 悶え焦れ、焦熱・大焦熱の焔に咽び、火血刀の苦を悲しむ有様、目も当てられず。』

 

 信長一行が諏訪を出立し、富士山に感嘆している時、甲府では大きな事件が起きていた。恵林寺が、逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)を匿い、引き渡しを拒否したというのである。信忠が派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼ら奉行衆によって、寺は取り調べを受けた。

 寺の住職・快川紹喜正親町天皇の御宸翰の綸旨によって、大通智勝国師という国師号を受けたほどの人物であり、多くの人々から尊崇を受けていた。

 奉行衆は「捜索をするから全員、山門の楼閣に上るよう」に命じたので、紹喜を始め多くの僧侶が楼閣に上った。すると、兵士たちは梯子を外し、藁を積み上げ、山門の楼閣に火をつけた。閉じ込められた僧侶は全員焼き殺されたのである。立ち上る炎は風に煽られ類焼し、ついに全山焼失に至った。

 紹喜は美濃土岐氏の出身とも言われ、還俗前の一鉄が師事したとも伝え聞く。この事件は本能寺の変の要因の一つにも数えられているほど衝撃的な事件であった。軍記物では光秀が殺戮に反対し、信長に折檻を受けるという話もあるほどだ。しかし、現実には焼き討ちを実行したのは信忠であり、信長は光秀と富士山見物をしていたことになる。要するに折檻などの事実はないのである。

 

 「だがなぁ、伝五。顔には出さぬが、殿の憤りは半端なものではない。これで民の安寧がなせるのかと。」と秀満は言う。

 「上様は宗教が政治にかかわることを断じて許さないのだ。これはもう越前でも伊勢でも石山でも高野山でも分かっていたはずだ。これをなさねば天下の一統はならぬと信じておられる。多くの宗教が聖域の衣を纏い、怠惰を貪り堕落していた。無論、快川国師がそうだとは言わんが、織田家の法には従ってもらわねば困る。」と伝五は反論する。

 「だが、信濃や甲斐では罪のない神社仏閣も悉く焼かれた。あそこには民百姓の祖先も祀っているのだ。祖先の御霊を焼かれた人々はこれを何と思う。」と珍しく庄兵衛が味方をする。

 「オレは越前で奉行をしていた時、多くの民の苦しみを見た。何せ国中が焼け野原で死体の山だ。死体は武士だけではない。見つかれば女子供も容赦しないのだ。伊賀の国もそうだったと聞く。このやり方を続けていてはだめだ。たとえ武力で天下を平らげても、やがて人々の心は織田家から離れていく。」と庄兵衛は険しい表情で言った。

 

甲州市恵林寺