明智秀満 (69)
「信長公記」
『御返書の趣、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、武田典厩、小山田、長坂釣竿 始めとして、家老の者悉く討ち果たし、駿・甲・信滞りなく一篇に仰せ付けられ侯間、機遣いあるべからず侯。飛脚見及び候間、申し達すべく侯。其の表の事、是又、存分になすべき事、勿論なり。
三月十三日 柴田修理亮殿、佐々内蔵介殿、前田又左衛門殿、不破彦三殿
三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣移さる。十四日、平谷を打ち越え、越なみあひに御陣取り、爰にて、武田四郎父子の頸、関与四郎、桑原介六、もたせ参り、御目に懸けられ候。』
信長本隊が岩村城に駐留していると信忠から勝頼父子が自害したとの知らせを受ける。信長はこうして長年苦しめられた武田家という頸木から逃れることが出来たのである。この時の信長の解放感は計り知れなかった。
勝頼の代になってからも武田家に対する信長の恐怖心は変わらなかったのである。むしろ臣下の方が武田家の凋落に気づいていた。信長は最後まで勝頼が決戦を仕掛けてくると信じていて、信忠の突出を案じていたのである。
本能寺の変を語る時、多くは信長の忠実な家臣であった光秀の変化に着目する。しかし、信長の変化について語る者は少ないのである。信長は長期間にわたり、浅井、朝倉、三好、本願寺、信玄、謙信の包囲の中でもがき苦しんできた。そして武田家の滅亡とともに、その全てから解放されたのである。
上杉家は往年の力はなく、もうすぐ勝家らによって滅びるであろう。毛利家も既に秀吉に屈服の姿勢を見せている。長曾我部も間もなく降伏するだろう。信長に抵抗し、逆らうものは最早いないのである。これからは全てが信長の思うがままである。
岩村城の奥の間に信長と長秀がいた。
「誠におめでとうございます。これで日ノ本は全て上様のものにございます。」と長秀が笑いを噛み殺すように言った。
「うむ、五郎左にも苦労を掛けた。オレは勝頼の頸を見た時、平常心でいられる自信がないぞ。」と言って大笑いした。
「オレはついに勝ったのだな、五郎左。お前と尾張や美濃で、泥まみれで戦っていたオレが、鎌倉殿や室町殿と肩を並べたわけだ。」と言うと、
「いえいえ、上様は征夷大将軍には留まりません。さらに高見を目指せましょう。」と長秀は応じた。
「さてさて、これからは、今後の織田家をいかにすべきか、である。オレは断じて足利公方の二の舞はせぬ。信忠の脅威となる大大名の存在は決して許さないのだ。それは外様であれ、家臣であれ、親族であれ、オレの目の黒いうちにすべて滅ぼす。よいか長秀、我らはこれからこの仕事に取り掛かるのだ。」と信長は声を潜めて言う。
「まずは、毛利でございますか。筑前は5カ国案とか言っておりますが、到底受け入れられませんな。」と長秀が言う。
「十兵衛は毛利、吉川、小早川の3家分割案を出している。何れは織田の養子を入れて国替えさせるというのだ。」
「なるほど、さすがは惟任殿。先の先まで見据えていますなぁ。」
信長は頷くと「それでオレはこの仕事を十兵衛にやらせようと思う。」と言った。
「惟任殿は皆から恨まれますなぁ。」と長秀が言うと、
「十兵衛と藤吉は元々、オレが引き上げたのだ。外様の十兵衛なれば憎まれ役も致し方あるまい。」と信長は言った。
岩村城