明智秀満 (66)

 

 

 吾妻郡岩櫃城には潜龍院跡といわれる遺跡がある。勝頼が逃げ伸びてきたときのために造られた御殿であったという。その後、祢津潜竜斎昌月という人物がもらい受け寺院にした。

 

 「兄者、本当に父上は信長相手にここで籠城するつもりなのですかね。」と建築途中の御殿を見上げて真田信繁が言うと、

 「分からんなあ。1年や2年は持つであろうが、父上の事だ、単純に籠城するとは思えない。現に誼を通ずるため、信長には馬を送ったらしい。」と真田信幸は言う。

 「そもそも上臈衆を抱えた勝頼様が上州の山の中まで来られますか。」と信繁が尋ねる。

 「父上は二手も三手も先を考えておられる。勝頼公が来られても来られなくとも、常に真田が生き残る道を探っている。すでに織田家だけではなく北条家、上杉家とも誼を通じている。恐らく父上は真田の自立を図っておられるのであろう。

 父上は武田家から人質を取り返し、すぐにもご帰還の予定だ。ここで勝頼公の受入れの準備をしなければ父は嘘をついたことになる。それは士道忠義の道に反するであろう。我らはこうして受入れの準備をしているのであるから、こちらに来るか来ないかは勝頼公のご判断次第であろうよ。」と信幸は言った。

 

「甲乱記」

 

 『栢尾へ着かせ給ひて、待たれけれども、小山田出羽守、御迎に参らざりければ、爰は餘り無用心なりとて、夫より駒飼といふ山家へ、引籠らせ給ふ。其夜、人質とて召され置きし小山田が母、行方知れず闕落す。夫れよりして、すはや、小山田敵になるといひければ、上下惑乱して扨は郡内へ入る事、叶ふべからず。さらば天目に入らんとて、田野という所まで、辿り行き給いければ、天目山の地下人と、甘利左衛門尉、大熊備前守、秋山摂津守合屬して、此地へは入れまじとて、鉄砲を打懸け、矢を放つ事、軒端を過ぐる雨よりも猶ほ繁し。』

 

 天正10年(1582年)3月7日、信忠本隊は甲府に入った。信忠は武田信友・信廉・諏訪頼豊等、勝頼の親類・縁者・重臣らを探し出すと悉く処刑した。

 一方、小山田信茂の提案を受け、郡内の岩殿城に向かった勝頼たちではあったが、いつしか従う者は100名程に減少していた。

 柏尾に至っても信茂の迎えが来ないため、駒飼の方へ移動すると、いつの間にか人質であったはずの信茂の母が行方知れずとなった。これは信茂の裏切りだと悟った勝頼は、もはや岩殿城には入れまいと判断し、あきらめて田野に向かった。

 ところが田野の地元の郷士と甘利・大熊・秋山らが、この戦いに巻き込まれたくないと思い、鉄砲や矢を放ってきた。やむを得ず勝頼一行は天目山に向かって進んでいったのである。天目山には栖雲寺と言う寺があり、武田家の墓があった。勝頼はそこに死に場所を求めたのである。

 

 

 

タイトル:甲州市 栖雲寺

撮影日:2017年10月23日11:59         

著作者:江戸村のとくぞう