明智秀満 (65)
「晴豊公記」
『今日、明智人数しなのへちりちりとこし候なり。今度大事の陣の由申す。人数各いかにもしほしほたるていにて、せうしなるよし京はらへの言いなり。』
天正10年(1582年)3月4日、明智隊は京都に向けて進軍した。しかし目の肥えた京の人々には何だか「ちりぢりばらばら」で統制が取れていない軍勢のように見えた。参加の兵士も何やらしょんぼりした感じで、こんな大切な戦なのに、このような有様で大丈夫かと、京童にも笑われたという。
「兼見卿記」
『盛方院浄勝安土より罷り上がる。(中略)日向守殊更人数多く、綺麗の由語る』
しかし、3月5日に安土に到着した時、明智隊は人数が多いのでとても綺麗だった、と兼見卿は言っている。わずかの間で統制が行き渡ったようだ。恐らく秀満らが苦労した結果であろう。
安土城に参集した主な諸将は、明智光秀、細川忠興、一色義定、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生賦秀、高山右近、中川清秀である。
「武田三代軍記」
『眞田昌幸申ケルハ信勝公ノ宣フ處、道理ノ至極ニテ候ヘドモ、御生害ノ儀ハ何時デモ安カルベク候、何トゾ今一度御運ヲ開カレ、信玄公ノ御志ヲモ續セラルル、ヤウニコソ在度在候へ、左候ハバ上州阿賀妻ニ御籠城、然ルベク覚候。トゾ申ケル』
勝頼が、諏訪上原城から退却すると、武田家の命運を悟った諸将は次々と脱落し、新府城に到着した頃には2万人もいた軍勢が、旗本衆の3千人ばかりになっていた。巨大で未完成の新府城に籠城することは既に不可能になったのである。絶望的な状況に自害も考えた勝頼親子であったが、真田昌幸がこれを押しとどめる。
「自害など何時でもできましょう。信玄公の志を継ぐのであれば、再起を図るべきです。私の所領の上州吾妻には岩櫃城という断崖絶壁の堅城があります。そこで共に籠城しましょう。」と言った。
『小山田兵衛尉ハ郡内岩殿城ニ籠ヲセラレト申スサルヲ(中略)長坂釣閑斎ニ尋ネヲルルニ、眞田ハ一徳斎ヨリ三代ノ臣、小山田ハ當家譜代ノ大臣、数十代ノ守尉ニテ候ヘバ、郡内岩殿コソハ然ルベク候ハント申ス』
「信州はあまりに遠く、道も険しいです。ここは郡内の岩殿城で籠城すべきです。」と小山田信茂は説いた。すると、長坂光堅は「真田は一徳斎(真田幸隆)から3代、小山田は当家の長年の譜代なので、ここは信茂に従いましょう。」と言ったのである。
岩櫃城跡